Wednesday, 25 November 2009

世界の街角からMM 第41号 いざモスクワへ! 2009年11月15日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第41号 2009年11月15日
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モスクワに行くことにしたのでウズベキスタンでロシアのビザを取得した、その
ときのメモです。
▼目次
■いざモスクワへ!
◆VISAが取れるかな?
◆ソヴィエト時代のインツーリスト
◆VISA申請
◆VISA発給
■■編集後記
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■いざモスクワへ!
11月後半の三連休を利用して勉強会の有志とモスクワに行くことにした。実に赤
の広場に立った1985年7月以来となる。当時はソヴィエト社会主義共和国連邦、現
在はロシア連邦、首都は変わらずモスクワだ。タシケントでの仕事を始めたとき
には考えても不可能だろうから考えていなかったが、意外と連休がタイミングよ
くあり、しかも、行こうという有志もいた。されどVISAの問題があり、航空券だ
け買えばそのまま行ける国ではないことはソヴィエト時代と変わっていない。

この問題を解決せずしてリアリティが沸いてこないのは当時も現在も同じだ。当
時は、インツーリストとという国営旅行社があり、日本の代理店からインツーリ
ストへ予約を入れてもらい、バウチャー(予約証明と招聘状が一緒になった確認
証)を取得して狸穴のソ連大使館領事部へビザ申請した。当時、ソヴィエト国
内はどこでもこの一社でよかったのだが、今回はそのバウチャーをどのようにし
て取得するかという点に焦点を当てwebで検索するも法外なビザ手数料の旅行社ば
かりでなかなか具体的な情報が得られなく勝手が違った。

◆VISAが取れるかな?
ソヴィエトの構成国家であったウズベキスタンに滞在しているので、ここの旅行
社ならと問い合わせるが、webと同様な料金だし、ホテルも法外に高いオファーだ
った。ウズベキスタン国民は短期間の場合ロシアへはビザなしで行けるので需要
もないのだろうか、と考え、更に関連情報をレビューした。

ロシア政府に承認された旅行社や機関がバウチャーを発行できるという説明がweb
にあり、この情報から類推し、ホテルは旅行会社とも密接なはず、若しくは、旅
行会社がホテルを経営している可能性もあることからバウチャーの発行が可能で
はないかと仮定、この線でホテルへのビザサポートを確認し、ホテルが発行する
バウチャーでビザ申請が可能か否かをウズベキスタンのロシア大使館へ確認して、
ビザ申請へ漕ぎ着けた。この手続きで同時にホテルの予約を済ませ、平行してア
エロフロートのフライト、タシケント-モスクワ往復を予約した。

◆ソヴィエト時代のインツーリスト
ソヴィエト時代は、フライトスケジュールもバウチャーに含まれていたがロシア
連邦になってからは宿泊予約確認だけで観光ビザが申請できるようだ。しかもバ
ウチャーはホテルの予約担当が頑張ってくれ、予約確認とビザサポートを申し込
んだ翌々日にメールでバウチャーを送ってきた。金曜日に必要書類をメールで送
り、日曜日に届いたのでかなり早かった、ソヴィエト時代とは大違いだし、ウズ
ベキスタンはまだこのペースが抜け切れていないが、このサービスレベルに感心
し、モスクワはどんなに変わったのだろうかと数週間後に体験するモスクワを想
像した。

◆VISA申請
書類がそろったので、これで目出度くタシケントのロシア大使館領事部へビザ申
請を行った。領事部の入り口はウズベキスタン人が並んでいたが、窓口にビザ申
請だと告げるとセキュリティチェックをして領事部へ通れた。窓口の女性はテキ
パキと書類を処理、英語が通じたのも幸いした。ちょっとした躓きもこのときあ
った。事前の説明ではパスポート原本はビザ受領時と言われていたが申請時に預
けなければならず、同日に取りに帰り提出し、観光ビザ代(50米ドル)を窓口で
払い受取証を受け取った。

在京ロシア大使館のページをよく読んだら、2週間後の受け取りは全てのビザが無
料とある。これは日本国籍のみだが、在京だからだろうか、確認してみる価値は
ある。
http://www.rusconsul.jp/hp/jp/visa/visa.html

◆VISA発給
ビザは当日、翌日発給のエクスプレスサービスもあるが、通常の5日で申請、11月
10日、16時にパスポートに張られたビザとともにパスポートを受け取った。これ
で出発前準備が完了、ビザ手続きだけでかなりのエネルギーを使い果たしてしま
って、モスクワのことはまだまだ情報不足、これから、いざモスクワへ!は本格
的にこれからです。

■■編集後記
手続きだけでもう既にモスクワへ行ったようなエネルギーを使った。20数年ぶり
のモスクワ、楽しみだ、ただ寒そう!
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メールマガジン「世界の街角からMM」第41号 2009年11月15日
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【世界の街角からMM】 第40号 タシケントの日本人抑留者 2009年11月14日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第40号 2009年11月14日
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日本との関係でウズベキスタンを考えだ場合先ず日本人抑留者が頭に浮かぶ。タ
シケントにはその日本人墓地がある。
▼目次
■日本人抑留者の墓地を知ったきっかけ
■ウズベキスタンの日本人抑留者と墓地
■シベリア抑留中死亡者名簿
■なぜ抑留か?
■国際法上の取り扱い
■■編集後記
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■日本人抑留者の墓地を知ったきっかけ
タシケントに日本人抑留者墓地があるのを知ったのは、1996年2月、初めてウズベ
キスタンへ出張した時になる。調査団長が満州からの引揚者で、是非、墓参りを
したいという希望があり、その時の出張をアレンジしたUzbektourismの案内でヤ
ッカサライ市民墓地の一角にある日本人墓地へ調査団一同で墓参りをした。

■ウズベキスタンの日本人抑留者と墓地
タシケント市内南東地区、ヤッカサライ通りに位置する公営墓地の一角が日本人
墓地として整備されている。

第二大戦直後、中国東北地方、樺太や北方領土にいた日本兵約65万人(定説)が
スターリンの指示により強制的にシベリアに抑留され長年労働を強いられ、厳し
い環境の下、約6万人の命が失われた。山崎豊子の不毛地帯を読むとその過酷さが
よくわかる。ウズベキスタンでは、そのうち2万3千人の抑留者が強制労働に従事
し、817名がウズベキスタンで帰らぬ人となっている。

ヤッカサライ墓地には、タシケントより79名、タシケント地区墓地より8名、計87
名の日本人が眠る。隣接してドイツ人墓地がある。碑には1990年5月23日、もうひ
とつに碑には1995年10月1日の日付が刻まれている。両方とも福島県という文字が
読める。この意味はまだ理解していない。

抑留者の墓地は、ヤッカサライの他、タシケント市内のヤンギュリとハムジェン
スキイに墓地がある。ウズベキスタン国内ではタシケント州アングレン市、チル
チツク市、ボスタンデクス市、フェルガナ州コーカンド市、フェルガナ州フェル
ガナ市、アンディジャン州アンディジャン市、ブハラ州カガンなど13ヶ所に日
本人墓地がある。タシケント第四ラーゲリーの約500人の抑留者がウズベク人やロ
シア人とともに建設に従事し工事が中断していたナボイバレエ・オペラ劇場(タシ
ケント)が1947年に竣工したことはよく知られている。

ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル,観客席 1,400 で煉瓦(れんが)
造りのビザンチン建築である.日本人抑留者は,土木,煉瓦積み,彫刻,鉄工,
配線,大工,左官,電気溶接,測量など多岐にわたっていた。

◆墓碑に刻印された文字
◇永遠の平和と友好
不戦の誓いの碑
1990年5月23日
日ソ親善協会福島県支部

◇永遠の平和と友好の誓いの碑
1995年10月1日
日本ウズベキスタン友好議員連盟
福島県ウズベキスタン文化経済友好協会
ウズベキスタン国際文化教育交流国民協会

■シベリア抑留中死亡者名簿
元抑留者の村山常雄さんが平成19年(2007年)7月に「シベリアに逝きし人々を刻
す」題するソ連抑留者死亡名簿を刊行されました。その名簿によれば45815名が亡
くなり、ウズベキスタンでは2456名が収容され、うち、876名が亡くなっている。
なお、ソ連における日本人収容所はシベリアから西はウクライナまで広範囲にわ
たる。

第26収容所 〔アンヂジャン地区〕 33名
第288収容所 〔ベカバード地区〕 147名
第360収容所 〔ボスタンデグスキー地区〕 13名
第367収容所 〔コーカンド地区〕 241名
第372収容所 〔アングレン地区〕 134名
第386収容所 〔タシケント地区〕 261名
所属不明 47名

村山常雄さのサイト
http://yokuryu.huu.cc/

◆関連情報リンク
共同発表:日本国政府とウズベキスタン政府との間の抑留中死亡者をめぐる人道
分野における協力(仮訳)(外務省)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_02/uz_jan_ej.html

タシケント、古里を遠くはなれ生きた年月は
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0107/olient/olient27.html

夕鶴が舞ったナボイの夏(日本ウズベキスタン協会)
http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/06_yuuzuru_
shima.html

捕虜の汗「夕鶴」に実結ぶ、ウズベク「ナボイ劇場」のオペラ公演に感激(日本
ウズベキスタン協会)
http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/04_yuuzuru_
nagata.html

シベリア抑留日記(サウンドボリュームが大きいのでMuteにしたほうが良い。)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~sho_un/sub1.htm

中央アジア地区の日本人捕虜収容所
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/chuouasia.html

ウクライナ人捕虜からみた日本人捕虜
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~abe/jaus8.html

■なぜ抑留か?
旧ソ連地域での日本人戦争捕虜の抑留は、スターリンがヤルタ会談で約束
された千島列島・南樺太の占領のみならず、トルーマンに北海道の分割占
領(留萌町から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れたが、
一蹴されたためその代償として捕虜をシベリアへ送ったという説がある。

この背景は、日本のシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本
の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない、という理由であったが、
日本の占領政策に影響を強めようとしていたと考えられいる。

■国際法上の取り扱い
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち
帰ればその捕虜の所属国が支払うことになっている。日本政府は、南方地域
で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に
基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本
政府はそれを理由に賃金を支払わなかった。1992年以後、ロシア政府は労働
証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていな
い。(wiki)

以上のような説明がwikiにあったが、ソ連の継承国家であるロシアが労働証
明書を発行し、日本政府が賃金を支払えばこの問題がすっきりするのかとい
う疑問も残る。当時のソ連政府の行動はどのように考えたらよいのだろうか。

■■編集後記
近代日本の歴史は紐解く異議があり、義務教育で詳細に教義すべき内容だ
が私自身あまり記憶にないのは文部省がさほど重視していなかったからなの
か、単に私がサボっていたからなのかはっきり憶えていない。ただ、これらの
事実は大学に入ってから書物により徐々に事業がわかってきた。

ヤッカサライの日本人墓地以外、まだ訪ねたことがない。ブハラのカガンや
タシケント近郊のチュルチュクにもあり、今後は足を伸ばしてみたいと思って
いる。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第40号 2009年11月14日
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世界の街角からMM 第39号 11月・・・暖房、新米、ハルビン 2009年11月2日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第39号 2009年11月2日
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エッセイ的に、今回はタシケント日常です。
▼目次
■11月・・・暖房、新米、ハルビン
■■編集後記
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■11月・・・暖房、新米、ハルビン
今週末はもう11月だ。時が過ぎ去るのはいつも早いが成果はいつも遅い。神に導
かれて・・・というコメントを以前いただいたがこう考えれば気が楽になるなあ。

今週は3つ肯定的なことがあった。ひとつは、ヒーター(地域暖房)が入ったこ
と、二つ目は、新米だ、そして三つ目はタシケントで新たな旨い中華料理屋に出
会ったこと。生活が滲み出ている内容だな・・・。

◆ヒーター(地域暖房)
ソ連の置き土産に地域暖房システムというインフラがあり、温水が各戸に供給さ
れパネルを通して輻射熱で暖房するメカニズムになっている。欧州では一般だ。
この暖房があれば冬でも部屋の中はTシャツ一枚で居られるほど快適なのだ。しか
し、この暖房がないと寒い。10月に入ってから気温が下がり始め、最低気温が一
桁前半になることがあったが寒くて夜は靴下を履いて寝た。が、もうしなくてい
よい。

冬場はこの暖房が効きすぎることがあり、調節栓はなく、窓を開けて調節すると
いう非常に非効率的な方法しかないのが非常に残念だ。

◆韓国新米
Mirabadの朝鮮系食材店で久しぶりにお米を調達した。久しぶりだったのは7月に
日本から持ってきた日本米があり、それを消費した後、以前買ったホレズム米
(ウズベキスタンのプロフに使用するお米)がさらに残っており、先週末までに
使い切った。

韓国米だというので中粒種か短粒種だろう、時期的に新米だ。これは旨く、1キロ
3000Soumなので非常にリーズナブル、水加減がやや難しく、今日はやや柔らか目
に炊き上がってしまった。

このお米、品種は韓国米のようだがウズベキスタンで収穫されたもの、朝鮮系が
作っているのだろう、ソ連時代のコルホーズは朝鮮系の成績が抜群によかったと
ある本に書いてあった。

ウズベキスタンに住んでいる朝鮮系は、元々は第二次大戦前に朝鮮半島からソ連
沿海州へ移民した人たちなので、ルーツは現在の北朝鮮になる。そういう視点か
ら米の品種は朝鮮系だろうか、韓国系だろうかとという疑問がわくがとりあえず
美味しいことが第一だ。

◆ハルビン中華料理
その名は哈爾濱中餐館という。最初のころにかなりチャレンジし新たなレストラ
ンへ足を運んだが、数ヶ月もすると飽和してしまい、リピートになってしまう。
しかし、今回は情報の質が異なる。中華料理の本家である某国大使館に打ち合わ
せに行ったときに聞いた情報なのだ。

「店はあまりきれいではないが味はよい」とのこと、それを頼りに行ってみた。
Minor地下鉄駅の近くを住宅街へ少し入ったところにハルビンはあった。看板が泣
ければ中華料理屋とは思えない。夜行ったのでよくわからないが、紅葉した蔦が
建物に絡まっていた。

メニューはロシア語と中国語のみ、周囲の客は中国人が多い。韓国人もいるなあ、
でも日本人は居ない。どちらのメニューが想像しやすいかといえば、そりゃ、日
本は漢字文化だから中国語メニューだよね。汁入り餃子(ペルミニ)、古老肉、
家常豆腐、等など。中華料理は大勢で行くに限る。

ロシア人の若い娘、アルバイトなのだろう、忙しく走り回っていた。英語がほと
んど通じないが情報どおりのこのハルビン、ここの味はファンになるだろうな。

■■編集後記
お天気はお天気、ここのところ暖かいが大陸性気候なので急激に寒くなるのだろ
うか、こちらの人が言っていたカラスが市内で見られるときは寒くなる、これは
あたりました、翌日の最低気温は3度でした。
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世界の街角からMM 第38号 ウズベキスタン概況レビュー(5) 2009年10月28日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第38号 2009年10月28日
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ウズベキスタン概況レビュー5(民族、自然環境、地方行政)です。
▼目次
ウズベキスタン・レビュー5
■民族
■自然環境
■地方行政
■■編集後記
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■民族
ウズベキスタンの人口別民族構成(前回紹介したのと構成が異なるような気がす
る、朝鮮系が計上されていないので。)は以下の通り。独立後、この構成はロシ
ア人をはじめとする少数民族の出国と旧ソヴィエト連邦地域からのウズベク人の
帰国でウズベク人比率が徐々に高くなっている。

タジク人が5%と非常に少ないが、多くはウズベクとカウントしていると思われる。
その他の中に、朝鮮系、ユダヤ人、ギリシャ人、アルメニア人、ウクライナ人等
が含まれる。なぜ、ギリシャ人がこの地に居るのか、独立前までは35000人程度住
んでいたが現在は5000人程度である。

ウズベク71%
ロシア8%
タジク5%
カザフ4%
タタール2.5%
カラカルパク2%
その他7.5%

ウズベキスタンが独立した時、中央アジアに広がるイスラム原理主義者の台頭が
懸念され、ウズベキスタンは宗教に対して長年規制してきたことから急速に普及
していくだろうと予測された。

1994年当時、50%のウズベキスタン人がイスラム教徒といわれたが、少数がイスラ
ム教に関する実践的な知識を持っていたに過ぎないか、知識を得たばかりであっ
た。しかし、イスラム教の順守はこの地域で増加している。

◆教育
ウズベキスタンの15歳以上の識字率は99.3%と非常に高いが、15歳以下の就学年齢
の88%だけが就学している。これは、教育基本法が1992年に制定され教育改革がは
じめられたが教育予算の割り当てが不足しその進展は非常に遅く、教育施設は老
朽化し、カリキュラムの更新は遅れている。そのような状況下、年間60万人の大
学卒業者が輩出されている。しかし受け皿がないのが課題だ、ゆえに外国で就労
の機会を見つけるか、国内にフリーターで留まるかになる。労働人口の10%が外国
で就労している。

現行の教育システムは、1-5年が初等教育、6-11年が中等教育、それ以上が高等
教育となる。日本や米国と異なり、大学入学年令が1年早い。それから、飛び級も
あり、私の知人は20歳で大学を卒業してしまった。

■自然環境
ウズベキスタンの環境状況は国際環境団体の間では主要なトピックとなっている。
これは、数十年に及ぶソヴィエト連邦による綿花栽培の拡大が、大災害シナリオ
という結果を生み出している。農業は主要な汚染源となり、大気と水質の悪化を
招いている。

その中でも代表的なアラル海災害は、一つの事例である。アラル海は、空気中の
湿度を維持する機能を持ち、以前は世界第4位の面積を有する内水面であった。

1960年以降、流域の不適当な水利用から、カラコムダム建設や上流域での貯水池
建設等、アラル海は以前の水面の50%以下に縮小し、水量は3分の1以下になった。
信頼できる調査は行われておらず、データは公的機関からの情報に過ぎない。

多くの動物の死とアラル海地域からの難民だけが災害を推測させることが出来る。
誰にこの災害の責任があるのか、1960年代にアムダリア川からの取水を支持した
科学者と政治家、独立後に適切な灌漑施設やダム建設への予算措置をしなかった
政治家なのか、という疑問が残る。

実質的に解決が不可能なアラル海問題のため、高度な塩類濃度と重金属による土
壌汚染はカラカルパキスタン共和国内に広まっている。約94%の水資源が農業に利
用され、土壌の高い塩性化に影響している。農薬の多用と綿花栽培促進のための
化学肥料の使用が土壌汚染を引き起こしている。

独立後、数々の研究機関が調査を行ったが抜本的な対策の実施には至っていない、
現在、ムイナック(アラル海沿岸の元猟師町)は見捨てられたような感がある。

アラル海問題リンク集
http://uz.iio.org.uk/aralsea.htm

History of the Aral Sea: from Antiquity to Present
http://www.cawater-info.net/aral/aral0_e.htm

■地方行政
ウズベキスタンの地方行政は、12の県(viloyati)と1自治共和国、1独立都市
からから構成されている。県知事は大統領の任命で決められている。
以下に各県別の人口を示す。都市名はウズベク語、県はviloyati、市は市shahri
である。

Division Capital City Pop (2008)
Buxoro Viloyati Buxoro(Bukhara) 1,576,800
Jizzax Viloyati Jizzax 1,090,900
Navoiy Viloyati Navoiy 834,100
Qashqadaryo Viloyati Qarshi 2,537,600
Samarqand Viloyati Samarqand 3,032,000
Sirdaryo Viloyati Guliston 698,100
Surxondaryo Viloyati Termez 2,012,600
Toshkent Viloyati Toshkent 2,537,500
Toshkent Shahri Toshkent 2,192,700
Fergana Valley Region
Farg'ona Viloyati Fergana  2,997,400
Andijon Viloyati Andijon 2,477,900
Namangan Viloyati Namangan 2,196,200
Karakalpakstan Region
Xorazm Viloyati Urganch 1,517,600
Qaraqalpaqstan Respublikasi Nukus 1,612,300
(wiki)
Toshkent Viloyati(タシケント県)のデータはToshkent Shahri(タシケント
市)を含む統計である。県の下位にはディストリクトがある。

▼為替レート
1USD=1514 Sum (中央銀行商業売りレート)2009年10月16日
National Bank of Uzbekistan (National Bank for Foreign Economic Activity)
http://eng.nbu.com/about/history/index.php

■■編集後記
数字が並んでいると精緻に見えるがその根拠の信頼性を検証しないと数値は使え
ない。いつも悩むところだ。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第38号 2009年10月28日
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世界の街角からMM 第37号 ラトビア・リトアニア紀行 (4) 2009年10月25日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第37号 2009年10月25日
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今回はリトアニアの旧首都カウナスです。これまでの中央アジアから趣向を変え
てちょっと垣間見たバルトの国々、ラトビア・リトアニア紀行です。
▼目次
■カウナス
◆ヴィリニュスからカウナスへ
◆スギハラ・ハウス
◆カウナス新市街と旧市街
■第二次大戦前夜及び戦中のカウナス(参考)
■■編集後記
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■カウナス
カウナスを訪れた目的は杉原千畝記念館を訪れることが第一義だった。その名を
知ったのは、1990年代初頭だろう、杉原千畝の記事が新聞で掲載されてからだし、
命のビザという夫人が著した本を読んでからだ。

今回、20数年ぶりのバルト諸国への旅行が可能になったことから、是非ともリト
アニアのカウナスをと考えていた。かなりタイトなスケジュールであったが、ヴ
ィリニュスからカウナスへ日帰りで足を伸ばすことにした。

カウナスは、リトアニアの旧首都だがこれはソヴィエトによるリトアニア占領が
影響し、首都が暫定的にヴィリニュスからカウナスへ移転したことによる。

現在のカウナスは杉原が副領事として赴任していた当時とは大きく異なる、リト
アニアもそうだが。現在の人口は訳38万人、市民の93%がリトアニア人だが当時は
約25%のユダヤ人が暮らしていた。

カウナスは、戦後、工業都市として発展し、リトアニア全体の約4分の一の工業生
産高を担っている。フリーゾーンもある。

カウナス市役所
http://www.kaunas.lt/go.php/lit/English

Invest in Kaunas
http://www.invest-in-kaunas.lt/

◆ヴィリニュスからカウナスへ
ヴィリニュス駅前のバスターミナルからカウナスへ向かう。前日までは、鉄道で
カウナスへ行くことを考えていたが、複数のホテル従業員からの聞き取りで、バ
スのが便利なことと認識し、変更した。鉄道はカウナス駅が工事中で、カウナスI
までしか行かないことがわかっていたこともある。ただ、電化された鉄道での旅
も、所要1時間、最後まで諦め切れなかったが時間が限られているので頻度の高い
バスとした。運賃は片道20Listas、800円相当だった。

バスの乗客は少なく、一番前に陣取り、リーガからヴィリニュスと同じように晴
れた初秋の農村風景を車窓から眺めた。このルート、E85だったか、リーガ-ヴィ
リニュスの道路より整備が行き届いていた。

1時間15分なのであっという間にカウナスに着いた。幹線道路からランプを降りて
市内へ向かう。ランプ周辺はやはり車のディーラーが多い、レクサスもあった。

バスターミナルは、カウナス駅に近い場所にあり、日曜日だからか非常に静かな
印象だった。帰りのスケジュールを確認して、ターミナル内にあるカフェでコー
ヒーを飲みながら、スギハラ・ハウスへの行き方を確認する。思ったより近く、
徒歩でいける距離だった。

◆スギハラ・ハウス
リトアニアの旧首都であるカウナスへ行った目的は杉原千畝記念館を訪れること
だった。

当初の旅程では時間的に難しいとの意見もあったがヴィリニュスまで行くのだか
らとその先100kmの距離は何としてでも行くべきとして実現した。バスでヴィリニ
ュスから1時間15分、スケジュールはややタイトになったが快晴の初秋、週末のカ
ウナスの街は新市街から旧市街まで歩きがいがあった。

スギハラ・ハウス(元在リトアニア日本領事館)はバスターミナルから10分程度の
小高い丘の上にあった(バイズガント通り30番地)。旧領事館はカウナスが一望
できる丘の中腹に市街地に向かって建てられた建物は通りからは平屋建てのよう
に見えるが傾斜しているので表から見ると2階建てだ。庭にはりんごが実ってい
た。90年代読んだ「命のビザ」に掲載されていた写真と同じ建物だが通り沿いの
鉄柵は現在はない。

杉原千畝は今では広く知られているが私が耳にした90年代初め(だと思うが)、
最初は新聞記事で読んだのだろう、骨太の外交官がいたのだと感心し、感動した
ものだ。しかし、帰国後外務省を退官せざるを得なかったことや名誉回復云々と
いう記事からは全貌が掴めないでいた。その後、前述の「命のビザ」が出版され
これを読んで彼の行動を理解した。

今では説明の必要もないだろう、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがポーラン
ドに侵攻し、ポーランドに住むユダヤ人がシベリア鉄道経由で亡命するために必
要な日本通過ビザをオランダ領事ヤン・ツバルテンディックと連携し杉原は本省
の意に反して発給した。

このような経緯から、その舞台となったカウナスと旧リトアニア日本国領事館に
興味を抱き機会があれば実際にの訪問してみたいと考えていた。バルト三国につ
いてはそれ以前から興味を持っていた。一度ソヴィエト時代に予約を入れてもら
ったが、ホテルが満室で取れず断念したことがある。このとき、杉原千畝のこと
は知らなかったのでそれはそれでよかったのだろう。

90年代の記事だったか本の中ではこの建物は賃貸住宅として利用され市民が住ん
でいるとあったが、1999年に財団が設立され、スギハラ・ハウスとして整備され
た。90年代といえば既にリトアニアはソ連から独立していたのでスギハラハウス
はバルト三国行き再燃の糧になっていた。それゆえ、今回このタイミングで行け
たことはこの上ない光栄の極みであり素晴らしいプチ旅行となった。

以下関連サイトです。

Sugihara House
http://www.sugiharahouse.lt/

カウナス市役所
http://www.kaunas.lt/go.php/lit/English

リトアニア杉原記念館
http://www.geocities.jp/lithuaniasugiharahouse/indexj.htm

杉原記念館
杉原千畝の出身地である岐阜県八百津町には人道の丘公園(1992年開園)が建設され、その中に杉原千畝記念館がある。
http://www.town.yaotsu.gifu.jp/sugiharatiune/index.html

◆カウナス新市街から旧市街へ
杉原・ハウスの後、St.Micael the Archangel's Church、ビザンチンスタイルの教
会を目指した。ここからLaisves alejaが旧市街までほぼ直線で伸びる。ヨーロッ
パで最長のショッピングストリートの一つ、真ん中には刈り込まれた並木が並び、
両側はショップが並ぶ、兎に角長い。

日曜日だったのでショップの多くは閉まっていたが、出店が出ており、市民が多
い、何かイベント日なのだろう。City Gardenまで来たところでステージがあり、
民族衣装を着た少年少女が踊っている。横の出店ではソーセージとポテトを焼い
ているが、まだ、腰を下ろすには先が長いと思いながら、旧市街を目指す。しか
し、長い、通りだし、店の数も半端ではない。

ステージの先に道路と接する箇所があり、更に先へ足を進めると、アンダーパス
があった。ここからが目指す旧市街だろうか、建物の雰囲気が異なる。アンダー
パスを超えた左側に、Lonely PlanetのLithuaniaの表紙に使われた広告があった。
ここだったのかと納得。

St.Peter and St. Paul Cathederalまでまで辿り着くと概ね旧市街の中心だ。そ
の先の広場に面した建物にツーリスト・インフォメーションがあり、入ってみる。
そして、レストランとバスターミナルまでの行き方を聞く。

紹介された直ぐ近くのレストラン、この辺り少ない、で遅いランチを取る。結構
な賑わいだが、ほとんど観光客のようだ。メニューは英語も併記されていたが何
が出てくるかわからないが、ローカルフードであることを確認し、その中にあっ
たロールキャベツとポテトのセットを注文した。

食事の後、近くのバス停まで歩き、トロリーバスでバス・ターミナルへ戻る。降
りる場所が良くわからなかったが、車中の人に聞いたら降りる場所を教えてくれ
た。車中からみたカウナスの街、まだまだ散策したいが時間が許さない。4時過
ぎのバスでヴィリニュスへ戻る。

■第二次大戦前夜及び戦中のカウナス(参考)
1919年、首都であったヴィリニュスがボリシェビキに占領されるとリトアニア政
府はカウナスに暫定的に首都を移転、翌1920年、ヴィリニュスがポーランドに併
合されカウナスは正式に首都となった。カウナスはソヴィエトがヴィリニュスを
リトアニアへ返還する1939年10月28日まで首都として存続した。

第二次世界大戦前のカウナスの人口は、70,900、他のヨーロッパの都市と同様に,
ユダヤ人25,500人、約36%を占める、が住んでいた。(1897年ロシア統計)

1940年、カウナスはソヴィエトに占領され、リトアニア社会主義共和国へ併合さ
れる。

それから第二次世界大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として、工
業的にも発展した。大戦が始るとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部
と共にソ連に占領されたが、間もなくドイツ軍が侵攻し街は破壊された。戦後は
ソ連の一部となり、再び工業が盛んになった。リトアニアの工業生産の四分の一
を担うまでになり、1966年にはトロリーバスが開通した。

2001年(wiki):
1. リトアニア人 352,051 92.9%
2. ロシア人    16,622 4.4%
3. ウクライナ人  1,906 0.5%
4. ポーランド人  1,600 0.4%
5. その他     6,764 1.8%

1897年(ロシア国勢調査)
1. Jews   25,052 35%
2. Russians   18,308 26%
3. Poles   16,112 23%
4. Lithuanians  4,092 6%
5. Germans    3,340 4.5%
6. Tatar 1,084 1.5%
7. Other 2,932 4%

◆両大戦の合間のカウナス
二回の大戦の合間、カウナスはの工業は繁栄しリトアニア最大の都市となった。
特に1921-31年の間、カウナスは急成長し、2500以上の近代的なビル、ネリス川
とネムナス川の架橋建設、街路の舗装、馬車からバスへの更新、上下水道整備、
郊外住宅地の建設、公園や広場の都市施設やVincas Kudirka libraryを含む図書
館の建設の建設、教育施設の新設など広範囲に近代化が行われた。また、社会保
障基金が創設された。

両大戦の合間、カウナスはユダヤ人の人口が3.5-4.0万人に上り約25%を占め、商
業、芸術、プロフェッショナル分野で活躍した。カウナスはユダヤ人の教育の中
心でもありThe yeshiva in Slobodka (Vilijampole.)はヨーロッパでも伝統ある
ユダヤ高等教育機関のひとつであった。カウナスには100のユダヤ機関があり、4
0のシナゴーグ、ユダヤ人病院、多数のユダヤ人が所有するビジネスが存在し、
シオニストの中心でもあった。

◆カウナス・ユダヤ人の悲劇
1940年、ソヴィエト連邦がリトアニアを占領した時に先ず混乱した。占領は逮捕、
資産没収、全てのユダヤ機関の閉鎖をもたらし、ユダヤコミュニティ機関は一夜
のうちに消滅した。ソヴィエト連邦はユダヤ人の資産を没収すると共にユダヤ人
をシベリア送りにした。

Lithuanian Activist Frontがリトアニア人emigresによりベルリンで設立され、
リトアニアにおける反ユダヤ文学の普及をおこない、その中でユダヤ人のための
ソヴィエト占領を非難した。

1941年6月22日、ドイツ軍のソヴィエト連邦占領に続いて、ソヴィエトはカウナス
を解放した。ドイツ軍占領の直後の6月25日、反共産主義ドイツの組織的な反乱軍
は、特にJurbarkoとKrisciukaicio通りソヴィエトの抑圧を非難したユダヤ人を攻
撃した。3800人以上のユダヤ人が虐殺され、数百人がLietu-kis garageに連行さ
れ殺された。最終的に、ドイツ軍はカウナス・ゲットーを建設したが、戦争末期
までにほとんどのユダヤ人が一掃された。

◆戦後
第二次大戦後、カウナスはリトアニアの工業都市として工業生産の4分の一を担う
ようになった。
(wiki英語版を基にしている)

◇フォトギャラリー
Kaunas
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157622438351256/

▼為替レート
Bank of Latvia
http://www.bank.lv/lat/main/all/

Bank of Lithuania
http://www.lb.lt/home/default.asp?lang=e

■■編集後記
無理した甲斐があったカウナス行き、駆け足だったが大満足!
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メールマガジン「世界の街角からMM」第37号 2009年10月25日
発行責任者:飯尾彰敏
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世界の街角からMM第36号 ラトビア・リトアニア紀行(3) 2009年10月24日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第36号 2009年10月24日
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今回はリトアニアの首都ヴィリニュスです。ラトビア・リトアニア紀行、これま
での中央アジアから趣向を変えてちょっと垣間見たバルトの国々。
▼目次
■ヴィリニュス
◆リーガからヴィリニュスへ
◆ヴィリニュス・バスターミナルと鉄道駅
◆旧市街散策
◆ゲディミナスの丘
◆Europe Business Centre
◆両替
■■編集後記
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■ヴィリニュス
ネリス川とヴィルナ川の合流地点にあるヴィリニュスはバルト海まで312kmと内陸
に位置する人口やク54万人のリトアニアの首都だ。第二次大戦前はカウナスが首
都だったが、これはどうも暫定的な措置で、歴史的にはヴィリニュスがリトアニ
アの都だったようだ。

独立後は、エストニアやラトビアとは異なり、残留ロシア人に対しほぼ無条件で
国籍をあたえている。その後、西欧諸国との結びつきを強めており、2004年3月29
日にはNATOに加盟し、さらに5月1日には欧州連合(EU)へ加盟した。EU並びにNAT
Oへの加盟は他のバルト諸国と同日だ。

旧市街は、ヴィリニュス歴史地区(文化遺産、1994年、(i)(ii))として世界遺産
に登録され、観光客も多い。東欧最大といわれる旧市街、かなり見所が多かった。

2009年はオーストリアのリンツと共に欧州文化首都にも選ばれている。
http://www.culturelive.lt/en/main/

ヴィリニュス市役所
http://www.vilnius.lt/newvilniusweb/index.php/110/?

◆リーガからヴィリニュスへ
EuroLineのバスでリーガからヴィリニュスへ移動した。料金は片道15Euro、バ
スの車輌により若干料金が異なる。予約は窓口でも出来るが今回は事前にオンラ
インで予約した。以前にも説明したが、キャンセルは窓口しか出来ないので、は
っきりしない場合は数日前に窓口で購入するのがよい。

バスは快適な旅、リーガ-ヴィリニュス間は現在道路の拡幅とリハビリテーショ
ン中でそれほどコンディションは良くないが、スムースな流れと車窓からの農村
風景は、収穫が終わった時期なのだろう、快晴のお天気の下のんびりとした印象
だった。

所要約4時間、ヴィリニュス近郊から道路が6車線の高規格になり、さながら西
ヨーロッパの都市のようだ、実際、ヨーロッパの都市なのだが。この国がソヴィ
エト連邦構成国家であったとは沿線のヨーロッパや日本の自動車ディーラーや商
業施設を見ていると想像ができないほどだ。

ヴィリニュスの都心の手前、近代的な真新しいカーテンウォールの高層ビジネス
センターが所々に見られ、緑濃い谷に位置するこの町の表情にアクセントを与え
ているかのようだった。

バスセンターへは、旧市街の鉄道を挟んで反対側からアクセスしたので、実際、
都心なのかどうかわからなかったが、バスを降り、ターミナルを出ると、そこは
ヴィリニュス駅前だった。午後2時に到着、丁度4時間かかった。

Eurolines
http://www.eurolines.ee/en

◆ヴィリニュス・バスターミナルと鉄道駅
旅行をしていると必ずバスターミナルや鉄道駅を経由する。それゆえ、その状況
を把握しておくことは次の旅程を考える上でも必要不可欠だ。

初めての都市ゆえ、実際、ヴィリニュスのどこに付いたのか地図とにらめっこし
ながらロケーションの確認をし、それが終わると周辺の状況を確認した。

バスターミナルは、鉄道駅の前に位置し、市内の公共交通機関であるバスやトロ
リーバスとも接続良く、更に、ホテルも想定どおり歩ける距離だった。

長距離バスネットワークが非常に発達しており、サービスレベルも高い。この
ターミナルからも西ヨーロッパやキエフ、ミンスク、サンクトペテルブルクなど
の都市をはじめ、国内の地方都市へも連絡されている。

その後、駅を散策、こじんまりとしているが機能的、駅の中にはツーリスト・イ
ンフォメーションがあり、市内の地図や案内を収集、2万分の1の地図は販売(12
Litas、480円相当)されている。両替をするつもりだったが構内にはなく、駅の
隣の銀行を紹介された。

銀行へいくもかなり混んでいたので、ではと、先を急いでホテルへ向かった。荷
物はほとんどリーガのホテルに預けてきたのでディパックだけ、地図で場所を再
確認し、午後のヴィリニュスを歩き始めた。

◆Hotel Rinno
Hotel Rinnoには徒歩10分程度で着いたと思う。非常にアットホームなレセプショ
ンの対応とインテリア、部屋はかなり広く、ダブルベッド、ワードローブ、デス
クがあり、南向きなのだろう午後の日差しが部屋に差し込んでいた。昨晩よりか
なり快適な印象、バスルームもシャワーだけだがかなり広い、朝食は中庭に面し
たレストランでとる。

webで探したホテルであるが、かなり当たりだ。場所は旧市街の中心よりやや外れ
ているが徒歩圏、宿泊料金は1泊朝食付きで49Euro。

http://www.rinno.lt

http://baltic.iio.org.uk/balt_hotel.html

◆ヴィリニュス旧市街散策
ホテルに荷物を置いて早速旧市街へ出かけることにした。午後2時に着いたので散
策に出かける時には3時ごろになっていたのだろうか、それでも日が高く、十分に
歩き回ることが出来た。まだ夏時間だったのだろうか。

レセプションでウォーキングルートを聞き、先ず、ホテルから旧市庁舎前広場を
目指して歩き始め、Radisson SAS Astorijaの横の通りでた。目の前のピンクの教
会、St.Casimir Churchと背景の青空に目を奪われつつ仰ぎ見た。

旧市庁舎前広場には、小さなピラミッドが設けられ子供たちが描いたであろう絵
がはめ込まれていた。

ここから、Vokieciu Gatve、中央が並木道になっているショッピング通りを経由
してDominikonu gatve、そして、Stikliu gatveを遠回りし、旧市街を貫くDidzio
ji gatveに戻った。

ランチはバスの中で持参したパンを少し食べたがさすがにお腹もすいてきたので
この広場に面したカフェで休憩をかねて軽食を取る。屋外に出されたテーブルの
一番前に陣取り、路行く人をウオッチする。土曜日なんでのんびりとした雰囲気、
非常に心地よかった。この店、客層も高いようでシャンパンを開けているグルー
プもあった。その時、目の前に真っ赤なスポーツカー、何だろうか、見かけたこ
とがない車だ、が止り、中からゴージャスなマダムが降りてきて、そのシャンパ
ンを開けている客のテーブルへ吸い込まれていった。

その後、カフェから旧市街を貫くネリス川へ向かって下っているDidzioji gatve
をGediminas Hillの麓にあるVilnius Cathedoralへ向かって歩き出した。途中、
ヴィリニュス大学があったがここはあまり見なかった。Vilnius Cathedoral、こ
の横には大きな広場があり多くに市民が集まっていた。

そろそろ本格的に両替をしなくてはと思い、Cathederalから続くショッピングス
トリート、Prospektas通り、ホテルのレセプションから聞いたルート、で両替所
を探すが見つからず、Novotelがあったので両替可能かどうか問い合わせたところ、
ホテルでは受け付けていないが、ホテルの反対側にあるGediminas9というショッ
ピングセンターの1階に銀行があることを教えてもらう。

そこで無事両替をし、ついでにショッピングセンター内を冷やかしてから、小銭
が必要だったGediminas Hillへ行く。ネリス川沿いの博物館側にフニキュラ
(ケーブルカー)があるのでそれで丘の上へ登った。

http://baltic.iio.org.uk/vilnius.html


◆ヴィリニュス旧市街(補足)
翌日、カウナスへ行きバスを10時過ぎへ変更したので少し時間が出来た、それで、
まだ見ていない旧市街を散策した。中央市場があったがここは今回はパスして、
旧市街の入り口、Gates of Dwonを見学する。この辺り、城壁が若干残っている。
そして、城壁門の内側が教会になっている。振り向くと十字架に見下ろされてい
る。

参考までにwikiにあった第二次大戦前のヴィリニュス民族構成を掲載しておく。

1931年の民族構成
* ポーランド人 -- 65.9%
* ユダヤ人(ポーランド語とイディッシュ語の両方を話す) -- 28.0%
* ロシア人 -- 3.8%
* ベラルーシ人 -- 0.9%
* リトアニア人 -- 0.8%
* ウクライナ人 -- 0.1%
* その他 -- 0.2%
(wiki)

現在世界遺産となっているヴィリニュス歴史地区(旧市街)の住民のほぼ 100 %
はポーランド人であったが、第二次世界大戦でヴィリニュスがソヴィエト連邦領
となり、リトアニア・ソヴィエト社会主義共和国に併合されるとこの街のポーラ
ンド人の多くがポーランドへと追放され、住民はリトアニア人とロシア人になっ
た。

◆ゲディミナスの丘Gediminas Hill
ネリス川沿いの博物館側にフニキュラ(ケーブルカー)があり、これで丘の上へ
登った。どうやら観光地でもあるがデートスポットでもなるようだ。

丘の上に城砦があり、入場料が必要、さらに上に登る。ここからはヴィリニュス
の街が一望できる。ネリス川側は新市街、反対側は旧市街、日の光から、新市街
は東側、旧市街は西側になるのだろう。

ここからの眺めはきっとヴィリニュス一の眺めだと思う。蛇行するネリス川の流
れと新市街地のビジネスセンター、他方、バロック建築を主体とするヴィリニュ
ス旧市街、教会の数々、直ぐ足元に巨大なVilnius Cathedoralとその鐘楼がみえ、
Cathederalから続くショッピングストリート、Prospektas通りの賑わいも若干だ
が覗いていた。

城砦の屋上の真ん中にはリトアニア国旗がはためき、存在感を示している。新市
街側にも丘があり、白い十字架が見え、観光客も見える。今回は時間なくこちら
へは足を伸ばしていない。

◆Europe Business Centre
ゲディミナスの丘の麓にある博物館を出て、ネリス側沿いに橋を二つほど先まで
歩く。Neris川に架かるGreen Bridge (Zaliasisi)と呼ばれる橋を渡り、次の交
差点(右角ホリデーインホテル)を右へ行くとEuropa Business Centre、近代的
な高層ビル群。中にショッピングモール、Europe Shopping Centreがある。

この前に建っているヨーロッパタワー、円柱の建物、この建物がバルト三国で最
も高い高層ビルとのこと。
http://www.europa.lt/en/

途中、ボートハウスのような建築物がネリス側に浮かんでいたり、パイプが堤防
から川の中へ出ていたり、どうもこれはアートらしい、目に留まるものが多い。
そして、川沿いの歩道は良く整備されていて快適この上ない。

Europe Shopping Centreは3or4層のアトリウムになっており内廊下に面してテ
ナントが入居している。4階に日本料理屋MIYAKOがあるということをwebで知って
いたので覗いてみたが、モスクワスタイルの和食だったので敬遠した。

テナントはリトアニアのも多いのだろうが、ヨーロピアンブランドも多くあり、
衣類を調達した。一回にはスーパーマーケットがある。

ここからホテルまでかなりあり、最初はバスで帰る予定だったが、ホテルの前を
通るバス停が良くわからず、結局、違うルートで旧市街を歩いてホテルまで帰っ
た。Novotelの近くにあった、ショッピングストリートであるVilniaus Gatveは、
もう既に時間が遅くほとんどのショップが閉まっていた。

◆両替
駅前での両替を逸したので、ちょっと苦労した。旧市街にも見当たらず、銀行は
既に閉まっており、ランチはクレジットカードで支払ったがペティキャッシュは
必要なので、本格的に両替所を探した。

この日は土曜日ということもあり、しかもヴィリニュスの両替所は銀行が主、よ
って3時か4時には閉まってしまい、両替に苦労したが、Prospektas通り、Novotel
の前にあるGediminas9というショッピングセンターの1階に銀行がある。

◆フォトギャラリー
Vilnius Old Town
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157622313717951/

▼為替レート
Bank of Latvia
http://www.bank.lv/lat/main/all/

Bank of Lithuania
http://www.lb.lt/home/default.asp?lang=e

■■編集後記
ヴィリニュス最高!
お天気最高!

昨年の世界経済危機でリトアニアもかなり影響を受けたと聞いていたが、旅行者
の目からはうかがい知れなかったが、ホテルのレセプション情報では、レイオフ
がかなり目立ったといっていた。また、低賃金にも関わらずとも漏らしていた。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第36号 2009年10月24日
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【世界の街角からMM】第35号 ラトビア・リトアニア紀行(2)2009年10月21日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第35号 2009年10月21日
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ラトビア・リトアニア紀行です。これまでの中央アジアから趣向を変えてちょっ
と垣間見たバルトの国々、今回はラトビアの首都リーガ(2)です。
▼目次
■リーガ(2)
◆Stockmann市場調査
◆中央市場とバスターミナル
◆ホテルにチェックイン
◆アールヌーヴォー(ユーゲント・シュティール)通り
◆リーガの日本料理
◆リーガの公共交通機関
■■編集後記
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■リーガ(2)
旧市街は、南縁にリーガ駅と中央市場、西縁がダウガヴァ川と河港、そして東側
が新市街である。

「ドイツよりもドイツらしい」と言われるような中世ドイツらしさが残るのは、
ドイツ人によって都市の基礎が形作られたという歴史ゆえであろう。旧市街は中
世ドイツの商業都市の特徴が多く見られ、とりわけハンザ同盟時代の街並みがよ
く残されている。ロマネスク、ゴシック、バロックなどの建築様式が混在する、
歴史的学術的価値の高さから世界遺産に登録(文化遺産、1997年、(i)(ii))されて
いる。ソ連時代においても、戦災で被害を受けた建造物が修復されているので歴
史的価値は認識されていたと考えられる。

それからリーガ歴史地区にはアールヌーボー建築も含まれる。

Riga Old Town
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157622438045594/

◆Stockmann市場調査
ちょっと大げさだが、ホテルにチェックインできるまで時間つぶしもかねて駅前
の商業施設を視察、Stockmannはスウェーデン系のデパート、隣にスーパーマーケ
ットもある、そして、駅構内のショップなどなど。

商品を見る限りヨーロッパと変わらない、EU加盟国だからこれまた当然のことな
のだが。バルト三国は3カ国とも2004年5月1日に加盟、ちなみにNATOにも三カ国揃
って2004年3月29日に加盟している。

販売されている商品は、現地製品も多いがフランス製とか北欧製とかも目立つ。
さすがはEUと田舎から出てきた旅行者は感じた。

◆中央市場とバスターミナル
Stockmannの裏側、鉄道と運河を越えた旧市街とは反対側に中央市場がある。建物
が駅舎のようなデザインだし多くの人が出入りしているので最初はそう思ってい
たが巨大な市場だった。またその周辺にも市場が広がっている。この季節は快適
なのだが冬季はどうだろうか、寒そうだ。

所狭しと並べられた野菜や果物、そして、お買い物客の賑わいは活気があって心
地よい。スイカとメロンはウズベキスタン産だという、日持ちもするし鉄道で運
べば十分バルト市場でも競争力がある農産物のようだ。建物の中は肉類や保存食
料が多かった。

翌日、このバスターミナルからEuroLineのヴィリニュス行きバスに乗るので乗り
場を確認することと、今回、一緒に行かれなかった仲間のバスチケットのキャン
セル可能性の確認をした。結果、Euro Lineはオンラインで予約できるものの、キ
ャンセルは1週間前までにタリン、リーガ、ヴィリニュスのEuroLine窓口まで来な
いとキャンセルできないのだ。これは理不尽だと思いながらもしょうがないな。

◆ホテルにチェックイン
Hotel Irina、シングル一泊41EUR、朝食付き、本当に駅前に位置する。窓から
駅舎とORIGOという駅の敷地内に建てられたショッピングセンター、そして、時計
台が見えた。直ぐしたの通りの向こうはマクドナルドだ。

このホテル、WEBを検索していて見つけたのかな、Lonely Planetに掲載されてい
るMid Rangeは全てチェックしたが安くてロケーションが良いホテルはなく、我々
はヴィリニュスへ移動するためのバスターミナルへ行く必要があることやもちろ
ん空港からのアクセス、そして、見所へのアクセスも当然考えてこのホテルに落
ち着いた。

丁度、旧市街と新市街との境目に位置し駅前だし便利だった。朝食も期待値を上
回り、これがヨーロッパの中級ホテルなのだろうと考えながら、注文して調理す
るオムレツはなかったがその他は大満足、よって、朝食はかなり食べた。その分
良く歩くことが出来たのかもしれない。

シングルの部屋は至って機能的に出来ている、シングルベッド、これはドイツと
かオーストリア、東ヨーロッパに多いスタンダードなもの、とデスク、バスルー
ムはシャワーのみ。お湯は暑いのがしっかりと出た。

インターネット接続はWi-Fiが可能であるが、無料と思っていたところ有料だった。
これが無料になればなおよしといった印象だな。しかし、ホテルの案内をめくっ
ている時にログイン名とパスワードが記されたカードが出来てたので繋いでみた
ら、ラッキーなことにログインできたのでその日は無料で利用した。

◆アールヌーヴォー(ユーゲント・シュティール)通り
アールヌーヴォー建築は、旧市街の運河を渡った地区のアルベルタ通り、エリザ
ベテス通り、ストレールニエク通りに多く現存する。概ね19世紀末から20世紀初
頭の建築だろう、通りの両側に平面的かつ装飾的な空間構成のアールヌーヴォー
様式ファサードが並ぶ。かなり修復が進んでいるようだ。

アールヌーボー
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157622313647277/

補足:アールヌーヴォー(Art Nouveau)は、19世紀末にヨーロッパで花開いた新
しい装飾美術の傾向のこと。有機的な自由曲線の組み合わせ、鉄やガラスといっ
た素材が特徴。アール・ヌーヴォーはフランス語で「新しい芸術」を意味し、パ
リの美術商、サミュエル・ビングの店の名前メゾン・ドゥ・ラール・ヌーヴォー
(Maison de l'Art Nouveau)に由来し、当時流行していたジャポニズムの影響を
強く受け、特に浮世絵に見られるような平面的かつ装飾的な空間構成を取り入れ
ている。

◆リーガの日本料理
この街にも日本料理があった。店の名前を失念してしまったが、旧市街の中に数
店舗あるようだ。相撲という看板を見た記憶、でも、ここではない。ウェブサイ
トにNOBUという日本料理屋があり、ここは日本人が料理しているというので
探してみたが、結果、情報不足で辿り着かず仕舞い。

Garelijaの4階にある本屋でラトビア人女学生と話す機会があり、彼女を誘って
試しに日本料理を食べてみることにした。

この地域の日本料理は基本的にモスクワ仕込み、資本もロシア資本が多いと聞い
た。モスクワ仕込みの日本料理は、巻き物系の寿司で誰にでも比較的作りやすい
ことと、その味がそこそこだということだ。刺身の鮮度は日本とは比較にならな
いが外国では、東南アジアではもっとレベルが高いが、この程度だろうと納得。
値段もリーズナブルだ。昼間は弁当セットがあり、こちらはかなりお得感があっ
たが、夜だったので適応外。

味噌汁はかなりまとも、でも「あさげ」かな、最近のは美味しいので。

◆リーガの公共交通機関
トラム、トロリーバス、バスと地下鉄がないだけで旧共産圏仕様の都市交通体系
だ。しかも、バスとトロリーバスの車輌は更新されており、ポーランド製だった
な、運行頻度も非常に高く効率に運行されている印象を先ず持った。トラムの車
輌は古いものの、なんとか維持し管理しながら運行している様子が伺えた。

料金は、0.4LV、これは事前にチケット購入した場合で乗車時は0.6LVとなる。一
日乗車券もあり、こちらは1.6LVとお得だ。キオスクに容易に購入できる。

リーガの公共交通
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157622438760342/

■ラトビア人について
インドヨーロッパ語族バルト語派に属するバルト系民族で言語は同じバルト語の
リトアニア語に近い。

映画「戦艦ポチョムキン」「イワン雷帝」で知られるセルゲイエイゼンシュタイ
ン監督はラトビアリガ生まれで父親はリガの有名な建築家ミハイル・エイゼンシ
ュタインである。

元ドイツサッカー代表のオリバー・カーン選手は祖父がラトビア人だ。

▼為替レート
Bank of Latvia
http://www.bank.lv/lat/main/all/

Bank of Lithuania
http://www.lb.lt/home/default.asp?lang=e

■■編集後記
まだまだ表面的なリーガだが、また、訪れたいと思わせる魅力がある都市だ。ナ
イトライフは今回はパスしたので次回はこちらも覗こう!

息抜きのラトビア・リトアニア紀行、お天気良く、最高の週末プラス旅行でした。

引き続き、私の視点でトピックを提供できればと思っています。
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