Sunday, 29 May 2011

新緑のソフィア

Saturday, 28 May 2011

【世界の街角からMM】第102号 ソフィア・レポート 2011年5月27日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第102号 2011年5月27日
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5月初旬、エレバンとソフィアへ所要で赴いた。そのときのソフィア・レポートで
す。
▼目次
■ウィーン空港がオンラインシステムダウン
■ソフィアに荷物届かず
■EU加盟したブルガリアへ
■ソフィアのホテル
■■後記
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★スライドショー(新緑のソフィア2011年5月)
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157626651499651/show/

■ウィーン航空のオンラインシステムダウン
ウィーンに到着し、ソフィアへの乗り継ぎ便のチェックインをしようとオースト
リア航空のカウンターへ行ったらオンラインシステムがダウンしているのでしば
らく待つように指示された。ここで、手書きの搭乗券が発券されたが、乗り継ぎ
便まで4時間ほどあったので空港内のカフェで待つことにした。

手書き搭乗券は席が決まっていないので落ち着かず、何度もカウンターへ確認に
行くもダウンしたまま、そのうちに搭乗時間が来たのでセキュリティチェックへ
進みゲート内で待つことにした。

ゲート内のカウンターで席がどうなるのか確認すると、これまた手動で席番号の
シールを手書きの搭乗券に貼り付けて席が決まった。どうやらダウンしたシステ
ムは直ぐには回復しないようだった。このまま、搭乗となったが手動で搭乗手続
きを行っているので時間がかかり、30分以上出発が遅れた。

この手書き搭乗券、手動での席の指定は、20年以上前にどこか途上国で経験して
からこのようなことはなかったが、正常に機能していた。

■ソフィアに荷物届かず
ウィーンからソフィアへは1時間半のフライト、ソフィア空港はターミナル2に到
着した。ターンテーブル前で待つものの私の荷物が出てこない。ウィーンでス
ルー荷物の確認ができていなかったので若しやとは思っていたが現実となってし
まった。

係員にエレバンでチェックインしたときの荷物タグを見せ、確認を依頼したとこ
ろ、タグに記載されている乗り継ぎ便の便名がウィーンからソフィアへの便名で
はなく、復路のソフィアからウィーンへの便名であることがわかった。

アルメニアではこのような不手際が頻発するので、ウィーンで必ず確認するのだ
が、今回はウィーン空港のオンラインシステムがダウンしていた影響で確認が出
来なかったのだ。何らかの間違いがある場合はこの確認で通常は修正できる。

Lost & Foundの書類に記入し、現在、どこに荷物があるか確認してもらった。そ
したら、案の定、ウィーン空港に留め置きされていた。これを次のフライトでソ
フィアへ送ってもらい、ホテルまで運んでもらうよう手続きして外へ出た。

ソフィア空港ターミナル2はEIBの融資により実施されることを聞いていたが、EU
へ加盟する直前の2006年末にオープンしたようだ。以前のオンボロターミナルか
らみれば格段にサービスレベルが向上した。

■EUに加盟したブルガリア
ここからが本題です。

ソフィアには、雲助タクシーが多いので空港のカウンターを通してタクシーを予
約したほうが良いとソフィア空港のウェブサイトに説明があった。到着後、カウ
ンターへ行くと2社あり、OKタクシーを予約、国会の前にあるホテルまでは8レバ
(USD=1.33レバ)とリーズナブルであった。ちょっと驚き。

20分程度でホテルに着いた。

この季節、ソフィアの街路樹に多いマロニエの花が咲き、そよ風に揺れる新緑が
爽やかでした。

1996-97年にここで仕事をしていた時と比較すると表面的ではあるがかなり状況
が回復しているような印象を受けた。

それは通貨が安定(カレンシーボードの導入による通貨管理、インフレ抑制な
ど)し、公共・民間投資がある程度進捗しているとの印象を持ったからであろう。
かつてマフィアが経済を牛耳っていたが今回はそこまでは聞けなかった。

ブルガリアは、2007年1月にルーマニアと同時にEU加盟している。かなり背伸び
して加盟したような印象が残る、加盟したことにより多くの技術者が他のEU諸国
へ流出していることは否めない。私の友人も現在ベルギーで働いている。

円借款が一部供与されているソフィア地下鉄も2009年に開業(一路線だけ)、新
築・改装したビルが目立ち、ホテルが増え、米国系ファーストフードが増えた、
マクドナルド、当時は1店だけ、カフェやレストランも増えた、かなり西ヨーロ
ッパナイズされた印象だ。ヴィトーシャ通りは歩行者専用になり、西ヨーロッパ
と変わらないブランドのショップが目に付いたがその数は多くはない。

1990年代は査証が必要であり、空港でも取れたがUSD96支払う必要があった。その
後、日本国籍は査証免除になった記憶だが定かではない、今はEUに加盟したこと
で日本国籍所有者は査証免除である。

1996/97年は最悪の経済状況でありハイパーインフレの結果、カレンシーボードが
導入されドイツマルクに固定された。そして、デノミが実施され、新通貨である
新レフ(BGN)が導入された、これが98年であろうか。

変わらないこともある、旧市街の古い建物はそのまま(朽ちたまま)、老人の物
貰いの多さ。トラムやバスは当時の車輌を維持管理してなんとか使っているよう
だ。

今回の滞在目的は数日なのでソフィア以外へは足を延ばしていない、ブルガリア
の魅力は地方だろう。また訪れたい国だ。

▼ソフィア空港改修プロジェクト
2006年8月に新滑走路がオープン、遅れて新ターミナルが2006年12月にオープンし
た。総事業費200 mil. EURのソフィア空港リコンストラクション・プロジェクト
は新旅客ターミナル及び第2滑走路の建設から構成され、1997-98年に融資が決ま
った、その内訳は、EIB (60 mil.EUR), Kuwait Fund (41.5 mil. EUR(12.3 mil.
Dinar), EU PHARE (7.6 mil.EUR)を融資、ISPA (Instrument for Structural
Policies for Pre-Accession)が50 mil.EURを無償供与した。

新ターミナルの建設はオーストリア企業のドイツ支社Strabagが受注、第2滑走路
の建設はクウェート企業であるMohamed Abdulmohsin al-Kharafi & SonsとUAE企
業であるAdmak General Contracting Companyのコンソーシアムが受注した。

ソフィア空港
http://www.sofia-airport.bg/default.aspx

▼ソフィアの地下鉄
中心部の地下部に円借款が供与されている。
http://www.jica.go.jp/press/archives/jbic/autocontents/japanese/news/2002
/000015/appendix.html

1997年当時、地下鉄は建設中だった。3路線計画され、1号線から着工された。200
9年9月時点で14駅、総延長18kmが開通している。

日本政府は「ソフィア地下鉄拡張計画」として128億9,400万円を限度とする円借
款をブルガリア政府へ供与、L/Aが2002年2月4日に結ばれている。

地下鉄自体は1960年代から計画があったが共産主義時代には建設に至らず、1998
年1月になってやっと6.5km、スリヴニツァ大通りからリューリンを通ってコンス
タンティン・ヴェリチコフ駅へいたる5駅の区間が開通した。

拡張事業は、1号線の新規建設区間(第7-第16駅区間、約11.1km)の建設によって、
市中心部を貫通の上、東側住宅地まで延長するものである。円借款対象事業区間
はソフィア市が経験の無いシールド工法を含む施工を必要とする第7駅から第9駅
までの約2.1kmの区間である。施工は大成建設が請け負った。

隣国、ルーマニアの「ブカレスト国際空港アクセス鉄道建設事業」に418.7億円の
円借款を昨年(2010年3月10日)調印している、東欧ではブルガリアのソフィアに
次ぐ都市交通への融資となっている。
http://www.jica.go.jp/press/2009/20100311_01.html

両プロジェクトとも、最後の円借款案件であろう。

ソフィア地下鉄
http://www.metropolitan.bg/bg/

■ソフィアのホテル
思いで深いのは通称ビトーシャホテル、今はケンピンスキー・ザグロフスキーと
グロリア・パレスホテルだ。両方とも1996/97年に宿泊していた。今回、ケンピン
スキー・ザグロフスキーへ予約しようとウェブを確認したが満室、あれほどの部
屋数があり予約が入らないということは考えられないのだが。

当時、VISAカード取り扱い銀行が破綻して、キャッシュの持ち合わせがなくケン
ピンスキー・ザグロフスキーから廉価なグロリア・パレスホテルへ移ったがこち
らも顕在だった。

今回は、国会の前、ネフスキー寺院に近いRaddison Blu Grand Hotel Sofiaにし
た。当時はGrand Hotel Sofia、改装され10年前からRaddisonとなっている。

その他、ソフィアには改装したホテルや新たに開業したホテルが目立った。特筆
すべきは、中で、NDK近くの公園内に世銀の融資によりオープンしたヒルトンホテ
ルである。

宿泊料金は供給が増えたからなのだろう、高級ホテルは比較的安めで安定してい
るが、ウィーンと比較すると中級ホテルではあまり変わらない料金設定となって
いる。

▼Kempinski Hotel Zografski
最初は、ホテルビトーシャ・ザ・ニューオータニ(Vitosha New Otani)という名
称だった(1979年)。客室数442室、21階建て。黒川紀章氏の設計。私がチェック
インしたときの名称はインターコンチネンタルホテルだったが、途中でこの名前
になった。ブルガリアからの移民でドイツで成功した企業家ザグロフスキー氏が
買収したからだ。

このホテル事業には、日本政府が日本輸出入銀行を通して融資している。当時の
社会党幹部が関係していたのではないだろうか。

Kempinski Hotel Zografski
http://www.kempinski.com/en/sofia/Pages/Welcome.aspx

Gloria Palace Hotel
http://www.gloriapalacehotel.bg/

Raddison Blu Grand Hotel Sofia
http://www.radissonblu.com/hotel-sofia

■■後記
トラブルは出張には付き物だが、ウィーン空港のオンラインシステムダウンは想
定外だった。しかし、時間が掛かるものの手動でも問題なく手続きできるものだ
と関心した。

ブルガリアは既にEU加盟国、されど、経済状態は90年代よりはかなり改善されて
いるものの町の様子を見る限りではまだまだ低迷しているのではと思われた。

ソフィア地下鉄が円借款最後の案件になったようだが、資金需要はまだまだある
のではないだろうか、しかし、円借款供与の説明が付かないのだろう。というこ
とは、国際協力銀行の出番となるのか。今後も南東ヨーロッパ地域、継続して関
係を維持していくことが重要では。そのツールとして政策融資というのもありで
はないだろうか。

既に韓国がこの地域、積極的に活動している。日本の市場拡大などを考慮しても
十分に妥当性が見出せると考えるのは無理があるのだろうか。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第102号 2011年5月27日
発行責任者:飯尾彰敏 Copyright(c) Akitoshi Iio All Right Reserved.
E-mail:iio.tokyo@gmail.com
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ご意見・ご感想:http://form.mag2.com/slicleapru
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Friday, 20 May 2011

【世界の街角からMM】第101号 エレバン・レポート28 2011年5月19日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第101号 2011年5月19日
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5月初旬、エレバンとソフィアへ所要で赴いた。そのときのエレバン・レポート28
です。

▼目次
■開いていて良かったHIS
■アルメニアで東日本大震災追悼ミサ
■エレバンの日本料理
■グッドバイ・エレバン、また会う日まで
■■後記
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■開いていて良かったHIS
どのタイミングでエレバンへ行こうかと考えているうちにGWに入ってしまい、
あー航空券が買えないなーと思いながら、念のためHISへ電話してみたら営業して
いた。それで早速その日の内に予約・支払いを済ませて3日後にエレバンへ向かっ
た。

オーストリア航空は震災直後はインチョン経由だったり北京経由だったり福島原
発事故を懸念していたが、この時期には通常運行に戻っていた。しかし、客は、G
Wの中盤ということもあり多くはなかった。ヨーロッパが4月から夏時間となって
いる関係で、成田の出発時間が11:30と早くなっていたが他は通常通りであった。

■アルメニアで東日本大震災追悼ミサ
5月4日、エレバンに着いたその夜、Mother Cathedral of St. Gregory the
Illuminator で東日本大震災犠牲者の追悼ミサが行なわれたので出席した。アル
メニア教会大司教Karekin IIがミサを行い、Serzh Sargsyan大統領、Tigran
Sargsyan首相、Edward Nalbandian外務大臣他、閣僚や円借款事業関係者等が出席
した。
http://www.armenianchurch.org/index.jsp?sid=3&nid=1825&y=2011&m=4&d=4

日本からは徳永外務政務官が出席していた。これはGW中なので既に決まっていた
外務政務官の外遊にあわせたアルメニア側の計らいではないだろうか。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/4/0428_07.html

■エレバンの日本料理屋と中華料理Lotus
昨年末までは確か2軒だと思っていたエレバンの日本料理屋が3軒に増えていた。
よって早速試してみた。新たに増えたのは「Sushitoria」という店、寿司と若干
の日本食を出す。メニューは他の2店と概ね同じ内容だ。

場所はオペラハウスの近くで立地は良い。インテリアはやや中国趣味と混同して
いるようだが、これは仕方がないだろう、ここエレバンでは。店員にシェフは誰
かと聞いたところ、アルメニア系ロシア人だという。これはあまり期待できない
と思いながら、いくつか注文したが、懸念どおりの内容であったので詳細は記す
必要はないだろう。

エレバンでは、フィリピン人が作る日本食がまともであるという結論だ。よって
ワサビに軍配があるではないだろうか。

それから、以前、中国人コントラクターから情報を入手したまま、行かず仕舞い
だったLotusという中華料理にも足を運んだ。11年前から営業しているという。
この店の隣も中華料理屋なのだ。よって、入り口にはアルメニア語の看板しかな
いので外国人はここがLotusかどうかはわからないだろうな。間違って隣へ行く人
もいるだろう。

店内は中華料理屋だ。モヤシが自家製だという。エレバンでは豆腐、麺類は非常
に難しいのでそれ以外の料理となる。中国人情報だとメニューを選べばまあまあ
だということだったが、「どのメニューがまあまあ」なのかを聞いていなかった
ので適当に注文した。エレバンの中華としては並だろう、私としてはドラゴンに
票を投じたい。

Sushitoria
http://www.sushitoria.com

Wasabi
http://www.wasabi.am

Samurai
http://www.spyur.am/samurai

エレバンのカフェとレストラン私的メモ
http://armenia.iio.org.uk/armenia_cafe_restaurant.html

■しばらくの間グッドバイ・エレバン
エレバンへ行った目的は、荷物整理であった。先行きの明暗がはっきりしたこと
で一旦現地事務所を閉めることにした。数ヶ月はっきりしないまま維持したこと
になるが世の中思ったようには展開してくれない。

2010年の約1年間はほとんどエレバンで過ごしたことになる。日本とはほとんど
縁のない国だが、対日感情も良く比較的日本人には住みやすい国だ。中国人に対
しては冷たいようで、「チンチョンチャン」と冷やかす輩もいないことはない。

今年に入ってから鈴木自動車がディーラーをオープンさせた。徐々にではあるが
経済的な関係が構築されつつある。だからといって急速に関係が深まるとも思え
ない。

エレバン・レポートは28号でひとまず終了です。何か次に来るインセンティブを
と思い、エレバン地下鉄には乗らないでおいた。しばらくの間グッドバイ・エレ
バンだ。

■■後記
エレバン在住の日本語教師がアルメニア人女性と婚約した。これで一人は確実に
長期滞在者となるだろう。もしかしたら根を生やすかもしれない。
日本政府はアルメニア人留学生を受け入れているが、現在、アルメニアには日本
人は留学していない。数としては日本に住んでいるアルメニア人のがアルメニア
に住んでいる日本人よりはるかに多いことだろう、人的交流でも経済的な関係で
も今後の進展を期待したい。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第101号 2011年5月19日
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Monday, 16 May 2011

【世界の街角からMM】第100号 ベルリン・レポート(2) 2011年5月16日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第100号 2011年5月16日
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ベルリンの続きです。第100号はベルリン・レポート02となりました。

新政ドイのツ首都ベルリン、既に統一して20年も経過ちましたが2010年9月にベル
リンを再訪する機会に恵まれた。

▼目次
■ベルリンという都市
■ベルリンに進出したギャラリ・ラファイエット
■現在のチェックポイント・チャーリー検問所
■1985年の東西ベルリン
■■後記
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■補足
前号でレポートしたボルドーの写真を更新しました。
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157626417338058/show/

ボルドーのマルシェ
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157626439235385/show/

ベルリンの写真はまだ整理していません、出来次第お知らせします。

■ベルリンという都市
ベルリンの歴史を振り返ってみると、比較的新しい都市ということがわかる。19
世紀末にドイツ帝国の成立以降、首都として政治、経済、文化の中心として繁栄
した。しかし、第一次及び第二次世界大戦の敗北によりベルリンは荒廃した。特
に第二次世界大戦ではナチス・ドイツの最後の戦場となりベルリン市街戦が展開
され徹底的に破壊された。その後、東西陣営の占領地区から東西ベルリンに分割
統治された。

現在はドイツの首都として、人口340万人、経済規模は他のヨーロッパ大都市と比
較するとそれほど大きくはないがドイツ随一の都市に復活している。ちなみに日
本語でベルリンは伯林と書く。1880年代には森鴎外が留学していた。

▼ベルリン略史
1244年 ベルリンという名称が歴史的文書に登場
1448年 ブランデンブルク辺境伯がブランデンブルクからベルリンに宮殿を移す。
1871年 プロイセン国王が皇帝となってドイツ帝国が成立、ベルリンはその首都。
1919年 ワイマール共和国が発足、1933年に事実上崩壊した
1933年 ナチスが政権を奪取
1948年 ソ連が西ベルリン封鎖
1949年 東西ドイツが分裂して独立
1961年8月13日 東西ベルリンの境界線を封鎖し、ベルリンの壁が建設された
1989年11月9日 東ドイツ政府が東西ベルリンの境界線を解放、壁が崩壊した。
1990年10月3日 東西ドイツが統一
1991年 東西統一ドイツの首都と定められた
2001年5月2日 首都機能移転完了(ボンから)

▼地図で見るベルリン
市の中央を東西にシュプレー川が流れ、南西にテーゲル湖などの湖を擁する。
http://www.iio.org.uk/gallery/europe/img/west-berlin_transport_78.jpg

ベルリン特別市の行政区分としては、12の区 (Bezirk) に区分されている。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/BerlinDistricts.svg

▼東西統一後のベルリン
ベルリンの壁が撤去され市内中心部には広大な空き地が出現した。その一つであ
るポツダム広場は再開発され、巨大なビジネス・商業エリアになっている。ベル
リン東西分断まで最も賑わっていたウンター・デン・リンデン通りの代わりを自
然に担わされたクーダム通りは、ベルリン統合・再開発後、皮肉にもその座を追
われている。
http://www.stadtpanoramen.de/berlin/unter_den_linden.html
ウェブカム-歴史博物館
http://www.dhm.de/lindencam/

▼クーダム(Ku'damm)
クアフュルステンダム通り(Kurfu"rstendamm)を略してクーダムという。西ベル
リンにおける中心地、動物園駅から伸びる3.5kmの繁華街。カイザーヴィルヘルム
記念教会が途中にある。動物園駅付近の夜は
http://www.stadtpanoramen.de/berlin/kurfuerstendamm.html

▼ベルリンという名前の由来
諸説あるが、スラブ語で池や湿地を意味する「Berljina」(ベルジーナ)からきて
いると言われている。標準ドイツ語の会話における一般的な発音では「ベアリー
ン」となる。

▼鉄道駅
東西ベルリン時代は、西ベルリンが動物園駅(Berlin Zoologischer Garten)、
東ベルリンが東駅(Berlin Ostbahnhof)がターミナルだったが、東西ドイツ統合
後、ベルリン中央駅がワールドカップ・ドイツ大会にあわせて2006年5月オープン
している。

ベルリン中央駅正面
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f1/BlnHauptbahnhof28.jpg

ベルリン中央駅公式サイト
http://www.berlin-hauptbahnhof.de/site/berlin__hauptbahnhof/en/start.html

▼ポツダム広場(Potsdamer Platz)
かつてはベルリンの市内交通の中心地だったが、戦後、ポツダム広場は壁により
二分され、賑やかな交差点は荒地になっていた。東西ドイツ統合後、再開発が行
われ、4地区に分けて開発業者へ売却した。その中のひとつは、ソニーが担当し、
ヨーロッパ本社を建設した。ベルリン国際映画祭もここで開催される。

ポツダム広場再開発プロジェクト
http://www.arch-hiroshima.net/a-map/germany/potsdamerplatz.html

▼アレクサンダー広場(Alexanderplatz)
東西ベルリン時代、西ベルリンのクアフュルステンダム通り(クーダム)と東ベ
ルリンのアレクサンダー広場はそれぞれにおいて代表的な都心中心部として整備
されていった。アレクサンダー広場駅の反対側は、368mのテレビ塔(1969年完
成)が建っている。1985年に東ベルリンを訪れたときはこの広場に面したどこか
で食事をしたのだろうと思うが記憶が定かではない。テレビ塔は下記の写真にあ
るように長蛇の列、登る気になれず写真だけで撮った。

1985年当時のテレビ塔前
http://1985.iio.org.uk/east_germany/east-berlin01m.jpg

現在のアレクサンダー広場は東ベルリン時代と基本的な構成は変わらないが商業
施設、つまり、ショップが集積している。アレクサンダー広場駅の隣に巨大なガ
レリアカウフホフというデパートがあった。
http://www.galeria-kaufhof.de/

アレクサンダー広場
http://www.stadtentwicklung.berlin.de/planen/staedtebau-projekte/alexanderplatz/index_en.shtml

ベルリンのテレビ塔
http://tv-turm.de/en/index.php

■ベルリンに進出したギャラリ・ラファイエット
フリードリッヒ・シュトラッセを歩いていて気が付いたのは、フランスのデパー
ト、ギャラリ・ラファイエットが進出していたことだ。パリの本店とは趣が異な
り、ガラスを使った独特の設計となっている。

設計は、フランスの建築家ジャン・ヌーヴェル、1996年にオープンしている。
彼の代表的な作品としてパリの「アラブ世界研究所(1987年)」、「カルティエ
現代美術財団」(1994年)他が挙げられ、ガラス面の光の反射や透過により建物
の存在が消えてしまうような「透明な建築」や多様な種類のガラスを使い独特の
存在感を生み出す建築物を設計している。

アラブ世界研究所
http://www.imarabe.org/index-ang.html
カルティエ現代美術財団
http://fondation.cartier.com/

日本では、東京汐留の電通本社ビルを設計している、しかし、どうも日本のこと
をよく知らないで設計し、作品の意図がかなえられなかったことから自身の作品
として公表されることを望んでいないらしい。隣接する商業施設カレッタは米国
人建築家ジョン・ジャーディの設計だ。
http://www.dentsu.co.jp/

ベルリンのギャラリ・ラファイエット、表からは内部のデザインは想像できない
が一歩足を踏み入れるとそのデザインが一望できる。中央にガラスのスコーンの
ような吹き抜けがあり、その周りにショップが配置されている。かなり贅沢な空
間の使い方である。

以前、ニューヨークのトランプタワーに進出したようが、撤退した経緯があり、
フランス以外ではベルリンだけだろうか。

クーダムにはKaDeWeというデパートがあるが、フリードリッヒ・シュトラッセで
はギャラリ・ラファイエットがランドマーク的な威容を誇っている。

この地下は食品売り場、パリのギャラリ・ラファイエット・グルメと同じように
食事ができるコーナーがあり、ムール貝の蒸した料理があり

ギャラリ・ラファイエット・ベルリン
http://www.galerieslafayette.de/
パリ本店
http://www.galerieslafayette.com/

フリードリッヒ・シュトラッセ
http://www.friedrichstrasse.de/

■現在のチェックポイント・チャーリー検問所
完璧に観光資源化し、カフェや壁関連博物館が周囲に位置する。のどかな風景だ。
当時の緊張感等一片も見当たらない。

かつては、元東西ベルリンの国境検問所であり、外国人旅行者、外交官、西側軍
関係者が西ベルリンから東ベルリンへ行く唯一のルートであったが、東西ドイツ
統合に伴い、1990年6月22日に検問所は廃止された。

1961年8月13日に東西ベルリンの国境が閉鎖された10日後に米軍の憲兵隊は、東西
ドイツ国境の第三番目の検問所をFriedrichstrasseに設置した。それが、チェッ
クポイント・チャーリー検問所であり、これまでのHelmstedt(東西ドイツ国境)、
表音文字でAlpha、Dreilinden(東西ベルリン国境)表音文字でBravo、第三番目
が表音文字でCharlieと名づけられたのがこの国境検問所の名の由来だ。

この検問所の主要な役割は、西側軍関係者が東ベルリンへ移動することを登録し、
東ドイツへ連絡することであった。外国人旅行者は西側には登録されず、東ドイ
ツ側への連絡だけであった。東西ドイツ政府両国ともドイツとベルリンにおける
連合国軍を検閲する権限が与えられていなかった。。

1990年6月22日に廃止されたチェックポイント・チャーリー検問所の警備詰所は連
合国博物館に展示されている。2000年8月13日、その警備所のコピーが元の位置に
建てられた。東ドイツ側の見張塔は、2000年12月9日、地権者であるCheckpoint
Charlie Service Companyにより取り壊された。

2004年10月31日、連合国博物館によりチェックポイント・チャーリー検問所の近
く、1,065名の犠牲者を出した東ベルリンからの越境地点に140mの長さのベルリン
の壁が再構築された。

連合国博物館 Allied Museum
http://www.alliiertenmuseum.de/en/0.php

▼無料レポート情報
『世界一わかりやすいアメリカ没落の真実』
アメリカ没落の裏事情を、世界一わかりやすく・山盛り資料つきで解説します。
これを熟読すれば、あなたも世界情勢が手にとるようにわかるようになるでしょ
う。
http://www.muryoj.com/get.php?R=13883&M=100004019

■1985年の東西ベルリン
1985年に東西ベルリンに滞在したときのメモです。参考まで。

西ベルリン
http://www.iio.org.uk/gallery/europe/west_berlin.html
東ベルリン
http://1985.iio.org.uk/east_germany/east_berlin.htm

■■後記
エレバンとソフィアへ所要で出かけていた関係で間が開いてしまいました。これ
は後ほどレポートする予定です。

ぶらぶらと何のシナリオもなく1985年当時のことを思い出しながら統合されたベ
ルリンを散策してみた。当時との違いは経済体制、つまり共産主義と資本主義の
違いである。その点を確認するように歩いてみたものの、表面的には東ベルリン
側にショップやカフェ・レストランが西ベルリン並みに増えたという点以外、そ
の違いが見出せなかった。しかし、人々の表情は落ち着いたように思う。
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