2014年6月13日金曜日

【世界街角通信】第197号 レイテ島タクロバン(10) 2014年6月12日



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メールマガジン「世界街角通信」       第197 2014612
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皆さま、こんにちは、世界街角通信です。引き続きフィリピン・レイテ島タクロ
バン、今回はその10です。

今号も日本と日本人との関係をレイテ島に関連して説明したいと思います。

▼目次
Hotel Alejandroと日本軍・日本人
■ドゥラグ中央小学校と日本軍
■台風ヨランダと日本人被災者

■■後記
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Hotel Alejandroと日本軍・日本人

タクロバンでは、ホテル・アレハンドロという名のホテルに泊まっていた。筆者
の基本は街中のホテルに泊まること、その都市の雰囲気が一歩外へ出ればわかる
からだ。しかし、復旧復興需要でこのホテルはほとんど空きがなく予約が出来な
かったが、今回、幸いにも私の滞在期間中、予約が入れられた。

多くのタクロバンのホテルが援助団体の事務所と宿舎になっているようにこのホ
テルにもUNOCHAUNDPが事務所を構えているが、が近々移転する。初動の支援が
終了したことも、部屋が空いていた要因であろう、私にとっては有難い。

このホテル、1932年に建てられ、その後、太平洋戦争の進展とともに、米軍、そ
して、日本軍、そして、米軍が使用した経緯がある。日本軍は説明よると3ヶ月
間、2階全てを接収し、その後、日本語教師のスズキさんが米軍のレイテ島上陸
194410月直前まで住んでいたようだ。

このホテルの前オーナーが写真好きで当時の写真を多く残している、それを壁一
面にギャラリーのように展示している。その中には、日本人、日本軍の写真もあ
るが、量的には米軍のが多い。

レイテ島の日本軍と日本人

■ドゥラグ中央小学校と日本軍

ドゥラグの小学校Dulag Central Elementary Schoolが、元日本軍の捕虜収容所
だったと聞いたのは、同町内のYamazoe Shtrineの話を聞いたときと同時期だっ
たが、今回、その両方を訪れることが出来た。実際に駐屯地と捕虜収容所だった。

しっかりした木造の建物で、長年、維持管理をしながら使ってきたのであろう、
しかし、台風ヨランダでは甚大なン被害を受けた。

Dulag Central School と日本軍

小学校の建物の正面に碑がある。碑文は以下の通り。

Gabaldon Building
Dulag Central School

Constructed in the 1920's under the leadership of Captain Tacio Lagunzad  and Distrit Supervisor Jacinto Delireli. All rooms used as class room  and intermadiate grade pupils. Site became populary known as "the new  school site".

From August 1942 to October 19 1944, building was occupied and used by  the Japanese Imperial Forces as a garrison and prison camp with an  under ground bartolina "well fortified dungeon beneath the concrete  stairs. Behind the building, a part from present athletic field, was  the place of brutal atrocities of the Kenpeitai, the Japanese Military  Police as well as a battle ground where underground forces attemted to  recapture the place several times but was captured by the American  liberation foreces in the morinig of October 20 1944.

筆者和訳
ガバルドンビルディング
ドゥラグセントラルスクール
Tacio Lagunzad大尉及び地区長(バランガイキャプテン) Jacinto Delireli
リーダーシップの下、1920年代に中学校(Intermediate Grade)として建築され
た。この場所は新学校としてよく知られた。

19428月から19441019日まで日本軍が使用し、bartolina=地下牢、コンク
リート階段の下にある堅牢な地下牢とともに駐屯地及び捕虜収容所として使われ
た。
建物の後ろ、現在の運動場の一部、は、恐れ慄く日本軍の憲兵隊があり、戦場と
同様にゲリラが奪還を何度も試み、19441020日の朝、米軍により攻略された。

■台風ヨランダと日本人被災者

タクロバン空港でマニラ行きフライトのチェックインのため並んでいた時、柱に
日の丸ともに何か書いた紙が柱に貼ってあることに気が付いた、その前後に、米
国と英国の国旗、近づいて文書を読むと、日本人被災者の情報があったら大使館
へ連絡するようにという内容の文書、米英も同じ内容だった。

実は、パロに住んでいた日本人の方が自殺していた。

まにら新聞より
レイテ州パロ町で暮らしていた日本人男性が自殺していたことが15日までに分か
った

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■■後記

太平洋戦争の激戦地であったレイテ島、当時の出来事が静かに歴史に刻まれてい
る、そんな印象を受けました。

昨年の台風ヨランダ災害復旧では日本政府は46億円の無償供与を決めています。

海外業務で常に考えること、それは日本・日本人との関係です。

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