Wednesday, 25 November 2009

世界の街角からMM 第37号 ラトビア・リトアニア紀行 (4) 2009年10月25日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第37号 2009年10月25日
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今回はリトアニアの旧首都カウナスです。これまでの中央アジアから趣向を変え
てちょっと垣間見たバルトの国々、ラトビア・リトアニア紀行です。
▼目次
■カウナス
◆ヴィリニュスからカウナスへ
◆スギハラ・ハウス
◆カウナス新市街と旧市街
■第二次大戦前夜及び戦中のカウナス(参考)
■■編集後記
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■カウナス
カウナスを訪れた目的は杉原千畝記念館を訪れることが第一義だった。その名を
知ったのは、1990年代初頭だろう、杉原千畝の記事が新聞で掲載されてからだし、
命のビザという夫人が著した本を読んでからだ。

今回、20数年ぶりのバルト諸国への旅行が可能になったことから、是非ともリト
アニアのカウナスをと考えていた。かなりタイトなスケジュールであったが、ヴ
ィリニュスからカウナスへ日帰りで足を伸ばすことにした。

カウナスは、リトアニアの旧首都だがこれはソヴィエトによるリトアニア占領が
影響し、首都が暫定的にヴィリニュスからカウナスへ移転したことによる。

現在のカウナスは杉原が副領事として赴任していた当時とは大きく異なる、リト
アニアもそうだが。現在の人口は訳38万人、市民の93%がリトアニア人だが当時は
約25%のユダヤ人が暮らしていた。

カウナスは、戦後、工業都市として発展し、リトアニア全体の約4分の一の工業生
産高を担っている。フリーゾーンもある。

カウナス市役所
http://www.kaunas.lt/go.php/lit/English

Invest in Kaunas
http://www.invest-in-kaunas.lt/

◆ヴィリニュスからカウナスへ
ヴィリニュス駅前のバスターミナルからカウナスへ向かう。前日までは、鉄道で
カウナスへ行くことを考えていたが、複数のホテル従業員からの聞き取りで、バ
スのが便利なことと認識し、変更した。鉄道はカウナス駅が工事中で、カウナスI
までしか行かないことがわかっていたこともある。ただ、電化された鉄道での旅
も、所要1時間、最後まで諦め切れなかったが時間が限られているので頻度の高い
バスとした。運賃は片道20Listas、800円相当だった。

バスの乗客は少なく、一番前に陣取り、リーガからヴィリニュスと同じように晴
れた初秋の農村風景を車窓から眺めた。このルート、E85だったか、リーガ-ヴィ
リニュスの道路より整備が行き届いていた。

1時間15分なのであっという間にカウナスに着いた。幹線道路からランプを降りて
市内へ向かう。ランプ周辺はやはり車のディーラーが多い、レクサスもあった。

バスターミナルは、カウナス駅に近い場所にあり、日曜日だからか非常に静かな
印象だった。帰りのスケジュールを確認して、ターミナル内にあるカフェでコー
ヒーを飲みながら、スギハラ・ハウスへの行き方を確認する。思ったより近く、
徒歩でいける距離だった。

◆スギハラ・ハウス
リトアニアの旧首都であるカウナスへ行った目的は杉原千畝記念館を訪れること
だった。

当初の旅程では時間的に難しいとの意見もあったがヴィリニュスまで行くのだか
らとその先100kmの距離は何としてでも行くべきとして実現した。バスでヴィリニ
ュスから1時間15分、スケジュールはややタイトになったが快晴の初秋、週末のカ
ウナスの街は新市街から旧市街まで歩きがいがあった。

スギハラ・ハウス(元在リトアニア日本領事館)はバスターミナルから10分程度の
小高い丘の上にあった(バイズガント通り30番地)。旧領事館はカウナスが一望
できる丘の中腹に市街地に向かって建てられた建物は通りからは平屋建てのよう
に見えるが傾斜しているので表から見ると2階建てだ。庭にはりんごが実ってい
た。90年代読んだ「命のビザ」に掲載されていた写真と同じ建物だが通り沿いの
鉄柵は現在はない。

杉原千畝は今では広く知られているが私が耳にした90年代初め(だと思うが)、
最初は新聞記事で読んだのだろう、骨太の外交官がいたのだと感心し、感動した
ものだ。しかし、帰国後外務省を退官せざるを得なかったことや名誉回復云々と
いう記事からは全貌が掴めないでいた。その後、前述の「命のビザ」が出版され
これを読んで彼の行動を理解した。

今では説明の必要もないだろう、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがポーラン
ドに侵攻し、ポーランドに住むユダヤ人がシベリア鉄道経由で亡命するために必
要な日本通過ビザをオランダ領事ヤン・ツバルテンディックと連携し杉原は本省
の意に反して発給した。

このような経緯から、その舞台となったカウナスと旧リトアニア日本国領事館に
興味を抱き機会があれば実際にの訪問してみたいと考えていた。バルト三国につ
いてはそれ以前から興味を持っていた。一度ソヴィエト時代に予約を入れてもら
ったが、ホテルが満室で取れず断念したことがある。このとき、杉原千畝のこと
は知らなかったのでそれはそれでよかったのだろう。

90年代の記事だったか本の中ではこの建物は賃貸住宅として利用され市民が住ん
でいるとあったが、1999年に財団が設立され、スギハラ・ハウスとして整備され
た。90年代といえば既にリトアニアはソ連から独立していたのでスギハラハウス
はバルト三国行き再燃の糧になっていた。それゆえ、今回このタイミングで行け
たことはこの上ない光栄の極みであり素晴らしいプチ旅行となった。

以下関連サイトです。

Sugihara House
http://www.sugiharahouse.lt/

カウナス市役所
http://www.kaunas.lt/go.php/lit/English

リトアニア杉原記念館
http://www.geocities.jp/lithuaniasugiharahouse/indexj.htm

杉原記念館
杉原千畝の出身地である岐阜県八百津町には人道の丘公園(1992年開園)が建設され、その中に杉原千畝記念館がある。
http://www.town.yaotsu.gifu.jp/sugiharatiune/index.html

◆カウナス新市街から旧市街へ
杉原・ハウスの後、St.Micael the Archangel's Church、ビザンチンスタイルの教
会を目指した。ここからLaisves alejaが旧市街までほぼ直線で伸びる。ヨーロッ
パで最長のショッピングストリートの一つ、真ん中には刈り込まれた並木が並び、
両側はショップが並ぶ、兎に角長い。

日曜日だったのでショップの多くは閉まっていたが、出店が出ており、市民が多
い、何かイベント日なのだろう。City Gardenまで来たところでステージがあり、
民族衣装を着た少年少女が踊っている。横の出店ではソーセージとポテトを焼い
ているが、まだ、腰を下ろすには先が長いと思いながら、旧市街を目指す。しか
し、長い、通りだし、店の数も半端ではない。

ステージの先に道路と接する箇所があり、更に先へ足を進めると、アンダーパス
があった。ここからが目指す旧市街だろうか、建物の雰囲気が異なる。アンダー
パスを超えた左側に、Lonely PlanetのLithuaniaの表紙に使われた広告があった。
ここだったのかと納得。

St.Peter and St. Paul Cathederalまでまで辿り着くと概ね旧市街の中心だ。そ
の先の広場に面した建物にツーリスト・インフォメーションがあり、入ってみる。
そして、レストランとバスターミナルまでの行き方を聞く。

紹介された直ぐ近くのレストラン、この辺り少ない、で遅いランチを取る。結構
な賑わいだが、ほとんど観光客のようだ。メニューは英語も併記されていたが何
が出てくるかわからないが、ローカルフードであることを確認し、その中にあっ
たロールキャベツとポテトのセットを注文した。

食事の後、近くのバス停まで歩き、トロリーバスでバス・ターミナルへ戻る。降
りる場所が良くわからなかったが、車中の人に聞いたら降りる場所を教えてくれ
た。車中からみたカウナスの街、まだまだ散策したいが時間が許さない。4時過
ぎのバスでヴィリニュスへ戻る。

■第二次大戦前夜及び戦中のカウナス(参考)
1919年、首都であったヴィリニュスがボリシェビキに占領されるとリトアニア政
府はカウナスに暫定的に首都を移転、翌1920年、ヴィリニュスがポーランドに併
合されカウナスは正式に首都となった。カウナスはソヴィエトがヴィリニュスを
リトアニアへ返還する1939年10月28日まで首都として存続した。

第二次世界大戦前のカウナスの人口は、70,900、他のヨーロッパの都市と同様に,
ユダヤ人25,500人、約36%を占める、が住んでいた。(1897年ロシア統計)

1940年、カウナスはソヴィエトに占領され、リトアニア社会主義共和国へ併合さ
れる。

それから第二次世界大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として、工
業的にも発展した。大戦が始るとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部
と共にソ連に占領されたが、間もなくドイツ軍が侵攻し街は破壊された。戦後は
ソ連の一部となり、再び工業が盛んになった。リトアニアの工業生産の四分の一
を担うまでになり、1966年にはトロリーバスが開通した。

2001年(wiki):
1. リトアニア人 352,051 92.9%
2. ロシア人    16,622 4.4%
3. ウクライナ人  1,906 0.5%
4. ポーランド人  1,600 0.4%
5. その他     6,764 1.8%

1897年(ロシア国勢調査)
1. Jews   25,052 35%
2. Russians   18,308 26%
3. Poles   16,112 23%
4. Lithuanians  4,092 6%
5. Germans    3,340 4.5%
6. Tatar 1,084 1.5%
7. Other 2,932 4%

◆両大戦の合間のカウナス
二回の大戦の合間、カウナスはの工業は繁栄しリトアニア最大の都市となった。
特に1921-31年の間、カウナスは急成長し、2500以上の近代的なビル、ネリス川
とネムナス川の架橋建設、街路の舗装、馬車からバスへの更新、上下水道整備、
郊外住宅地の建設、公園や広場の都市施設やVincas Kudirka libraryを含む図書
館の建設の建設、教育施設の新設など広範囲に近代化が行われた。また、社会保
障基金が創設された。

両大戦の合間、カウナスはユダヤ人の人口が3.5-4.0万人に上り約25%を占め、商
業、芸術、プロフェッショナル分野で活躍した。カウナスはユダヤ人の教育の中
心でもありThe yeshiva in Slobodka (Vilijampole.)はヨーロッパでも伝統ある
ユダヤ高等教育機関のひとつであった。カウナスには100のユダヤ機関があり、4
0のシナゴーグ、ユダヤ人病院、多数のユダヤ人が所有するビジネスが存在し、
シオニストの中心でもあった。

◆カウナス・ユダヤ人の悲劇
1940年、ソヴィエト連邦がリトアニアを占領した時に先ず混乱した。占領は逮捕、
資産没収、全てのユダヤ機関の閉鎖をもたらし、ユダヤコミュニティ機関は一夜
のうちに消滅した。ソヴィエト連邦はユダヤ人の資産を没収すると共にユダヤ人
をシベリア送りにした。

Lithuanian Activist Frontがリトアニア人emigresによりベルリンで設立され、
リトアニアにおける反ユダヤ文学の普及をおこない、その中でユダヤ人のための
ソヴィエト占領を非難した。

1941年6月22日、ドイツ軍のソヴィエト連邦占領に続いて、ソヴィエトはカウナス
を解放した。ドイツ軍占領の直後の6月25日、反共産主義ドイツの組織的な反乱軍
は、特にJurbarkoとKrisciukaicio通りソヴィエトの抑圧を非難したユダヤ人を攻
撃した。3800人以上のユダヤ人が虐殺され、数百人がLietu-kis garageに連行さ
れ殺された。最終的に、ドイツ軍はカウナス・ゲットーを建設したが、戦争末期
までにほとんどのユダヤ人が一掃された。

◆戦後
第二次大戦後、カウナスはリトアニアの工業都市として工業生産の4分の一を担う
ようになった。
(wiki英語版を基にしている)

◇フォトギャラリー
Kaunas
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157622438351256/

▼為替レート
Bank of Latvia
http://www.bank.lv/lat/main/all/

Bank of Lithuania
http://www.lb.lt/home/default.asp?lang=e

■■編集後記
無理した甲斐があったカウナス行き、駆け足だったが大満足!
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メールマガジン「世界の街角からMM」第37号 2009年10月25日
発行責任者:飯尾彰敏
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