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2017年9月23日土曜日

エチオ・ジブチ鉄道(1917年全線開通)

■二つのジブチ-エチオピア間の鉄道、その1

ジブチとエチオピアのアジスアベバを結ぶ鉄道には、時代を経て20世紀初頭に完成した鉄道と、近年完成した(運営はまだ)の二つの路線が存在する。

1)エチオ・ジブチ鉄道 Ethio-Djibouti Railways
2)アジスアベバ・ジブチ鉄道 Addis Ababa-Djibouti Railway

今回は、その1として、19世紀から建設が始まり、20世紀初頭にアジスアベバまでの全線が完成したエチオ・ジブチ鉄道について説明します。

▼エチオ・ジブチ鉄道 Ethio-Djibouti Railways

1894-1917年に建設された植民地規格である狭軌(1000mm 3ft 3 3/8inch)の鉄道で全長784㎞、ジブチ国内は約100㎞でほとんどがエチオピア国内を走る鉄道である。

ジブチ港からエチオピアの首都アジスアベバまで、ジブチの標高0mからアジスアベバの2300mまでの高低差を運行した。その間、187カ所の橋梁と1カ所のトンネル(Gol du Harr)があり、鉄道の運行に伴い、Dire Dawaという都市が鉄道の建設に伴い、建設された。機関車は蒸気機関車、そして、ディーゼル機関車が使用された。

この鉄道は数年前まで運行されていたが、2008-2014年の間に徐々に運行が停止され、公式には2016年末で廃線となっている。他方、中国の支援により標準軌のアジスアベバ・ジブチ鉄道が旧線のエチオ・ジブチ鉄道の路線に概ね並行して建設された、これは後述する。

2008年以降、全線の鉄道の運行が停止されたが、ジブチ-ディレダワ間は2010年まで運行していた。2013年8月に一度再開されたが短期間で終了した。その後、機関車や車輌は放置され、現在に至っている。

DireDawaの車輌修理工場は、2010年、新たな鉄道建設のための新会社へ移行した。メタル・エンジニアリング会社(Metal and Engineering Company: METEC)は2011年から2016年に貨車500輌を製造し、旧鉄道の遺産を引き継いで新鉄道へ貢献することとなった。

▼エチオ・ジブチ鉄道の歴史

エチオ・ジブチ鉄道は、フランス・パリに本社を置くImperial Railway Company of Ethiopia(仏語:Compagnie Imperiale des Chemins de fer d'Ethiopie)、エチオピア帝国鉄道会社が、ジブチ港とアジスアベバを結ぶ鉄道を建設する目的で、1894年にAlfred Ilg/Leon Chefneuxにより設立されたことから始まる。

その構想は、Alfred Ilgが、前皇帝や政治家の関心を集めて、ジブチ港からアジスアベバまでの6週間かかるロバの行程を鉄道に置き換える企画を、彼がメネリク2世の顧問であったときに行った。

1889年、メネリク2世が皇帝になった時でも進捗していなかったが、具体的な鉄道建設の交渉が始まり、鉄道建設の法令が1893年2月11日に発布され、1894年3月に鉄道建設の調査がIlgとフランス人技術者のチームが編成され行われた。

1894年3月9日に帝国令が発布され、鉄道建設を開始することが可能となった。メネリク2世皇帝は、自らの鉄道建設ベンチャーへの出資を躊躇したが、Ilgと彼の会社に99年のコンセッショネアー(期限付き割譲)権と一定の株式保有、さらに、3百万フラン以上の全ての利益の50%を受け取る権限を付与した。さらに、鉄道会社は、鉄道路線と並行して通信網の整備を行うことを義務とした。

鉄道会社は、鉄道建設に関する許可をフランス政府から取り付けるのに、エチオピアでの鉄道建設の反対派が形成される1897年まで時間を要した。メネリク2世は、鉄道建設への融資に関してフランス政府が関係することに怒りを表し、鉄道建設に反対するデモが発生した。

さらに、アジスアベバの英国公館が、英国領ソマリアのZeila港からの輸送量が減少することに懸念した。これは後に証明されることになる。鉄道の半分が完成した段階で、鉄道輸送は、ハラルとアジスアベバ方面のどちらか一方のキャラバン輸送貿易を駆逐した。

鉄道会社の株式は、欧州市場での販売に苦戦し、会社はフランス全国の市の商工会議所で販売促進を行った。しかし、投資家の関心は自制的であり、メネリク2世はフランス政府の直接的な融資に反対し、資金調達に苦慮した。

鉄道建設は1897年10月、ジブチから始まり、マイナーな港であったジブチが鉄道建設により第一の港となった。アラブ系の乗務員やソマリアの労働者は、ヨーロピアンより多く見られ、彼らは内陸へ向かって、通信線とともに工事を進めて行った。エチオピア人の多くは、鉄道建設資材の盗難防止のために治安部隊として雇用された。この建設工事の状況は、労働者によるサボタージュや地区のチーフによる前金の要求など、フランス人による初期の運営への重要な不正のソースとなった。

鉄道がエチオピア国境の到達する前でさえ、鉄道会社は深刻な資金不足に陥っていた。そのため、New Africa Companyと呼ばれる英国系の投資グループは、鉄道会社を数年、支配下に置き新たな資金を提供した。1901年までにフランスの投資家はInternational Ethiopian Railway Trust and Construction Companyを組織し、資本参加を行った。そして、鉄道会社の経営を担い、その後の資金調達を行い、1901年7月にジブチ-ディレダワ間の鉄道が営業運転を開始した。

▼エチオ・ジブチ鉄道の全線開通

英仏の混成した関心は鉄道建設継続に不安定な状況を生み出し、それぞれのグループの投資家はそれぞれの国家と商業を重視するようになり、そして、両国の政府はエチオピアの貿易を独占することに強い関心を抱き、陰謀を他者に対して企てた。

この両国の状況を見てメネリク2世は、1902年、鉄道のハラルへの延伸を禁止した。フランスの交渉再開は、メネリク2世のフランスの増幅しつつある活動を警戒してブロックされた。その結果、全線が開通していない中でのさらなる限定的な鉄道のサービスは、融資の返済に必要な十分な収入を得られなかった。

1904年、英仏は可能な限りこの事態を解決すべくEntente Cordialeを締結し両国は解決策を提案したが、具体的な進展には至らず、1906年、鉄道会社は公式に倒産した。

ジブチからハラールの手前まで完成していた鉄道は、既存のエチオピア南部の商業の集積地となった。

メネリク2世の時代、ソマリ系Issa族とGadabursi族は、アジスアベバまでの鉄道建設期間中の労働力であり、鉄道建設を通して多くの利益を得た。また、ディレダワは、鉄道駅が設置されたことによりハラールよりも大きな都市となった。

1906年の英仏伊の三国条約、続いて、1908年の仏とエチオピアのKlobukowski条約が締結され、メネリク2世はその後の鉄道の延伸に同意し、1908年1月30日、新たな鉄道建設に関するコンセッショネア契約がメネリク2世の仏人顧問医との間で締結され、新たな鉄道会社であるFranco-Ethiopian Railway (Compagnie du Chemin de Fer Franco-Ethiopien)が設立された。この時、インドシナ銀行が融資に参加している。

旧会社の資産は新会社へ譲渡され、アジスアベバまでの鉄道建設を担った。前会社への投資家や政府との1年に亘る調整の末、鉄道建設が再開された。1915年までに鉄道はAkakiまで到達し、2年後の1917年に残りの23㎞を敷設してエチオ・ジブチ鉄道全線の鉄道が完成した。

▼第2次世界大戦後のエチオ・ジブチ鉄道

エチオ・ジブチ鉄道は、1960-63年に、Adama-Dilla間310㎞の延伸計画の調査を実施し、エチオピア政府は、Nazareth-Dilla Railway Development Corporationを設立した。1965年、フランス政府は融資をエチオピアへオファーし、ユーゴスラビアの専門家が調査した。事業は妥当性(実施する価値がある)が確認されたが実施には至らなかった。

エチオピア政府の鉄道会社のシェアは、第二次エチオピア・イタリア戦争の結果、イタリア政府に召し上げられたが、第二次世界大戦後にエチオピアに返還された。

1977年にジブチが独立し、フランスの持ち分はジブチ政府に移譲され、1982年、鉄道会社は、その後、Ethio-Djibouti Railways (Compagnie du Chemin de Fer Djibouto-Ethiopien)に再構成された。

鉄道建設に携わった労働者は、1947年、エチオピアで最初の労働組合である「ディレダワ鉄道労働者組合」を設立し、鉄道事業は、エチオピアの労働運動のパイオニアを醸成したが、1949年、労働組合が組織したストライキは、政府により強く弾圧された。この時期、政府機関労働者によるストライキは反政府運動として多く見られた。

▼エチオ・ジブチ鉄道の衰退

第二次世界大戦後、エチオ・ジブチ鉄道の長期の衰退が始まった。それは道路建設が進展し、貨物輸送が鉄道から道路輸送に転換していく過程であった。1953年から1957年には鉄道の貨物輸送量が半減した。また、オガデン戦争(1977/78)の発生により、ソマリア軍がディレダワへ侵攻し、鉄道を占領したことから、更に影響を受け、半減した。

戦争終結後、鉄道は運行が再開されたものの、維持管理の不足やOLF(Ogaden Liberation Front)による攻撃により、更に衰退していった。そのため、エチオピア政府とジブチ政府は外国援助による鉄道リハビリテーションを求めた。2003年にEUが40mil EUROの無償資金協力を実施、その後、2006年に50mil EUROへ増額している。

2006年11月29日、イタリア企業であるCONSTAコンソーシアムと契約締結、オガデン戦争でダメージを受けた箇所のリハビリが2007年から開始された。

また、運営に関して南アフリカの鉄道運営会社である、COMAZAR(仏系企業であるBolloreが出資し、Eric Peiffer and Patrick Claesが南アTransnetとベルギーの Transurb ConsultとのJVで設立、ヨハネスブルグに本社を置く)が25年の運営権を獲得したが、これは実施されなかった。

そして、2008年はじめに、クェートの企業Fouad Alghanim and Sons Groupが鉄道の経営権について交渉中とのアナウンスがあった。

EUの融資事業は、停滞し、2009年までに約5㎞がリハビリされただけであった。その後、鉄道は部分的に放置された。リハビリテーションに失敗したジブチ・エチオピア両国政府は、新たなアプローチによるジブチ・アジスアベバ間の鉄道近代化を目指して、既存鉄道の終焉から新たな標準軌による鉄道建設へと判断が移っていった。その陰には中国政府のアプローチがあったに違いない。

2017年はエチオ・ジブチ鉄道が全線開通して100周年にあたる、イベント情報は聞こえてこない。

もう一つの鉄道が標準軌のアジスアベバ・ジブチ鉄道です。これは次号以降にて説明しようと考えています。

2016年7月30日土曜日

【世界街角通信MM】第264号アフリカの角にて「ジブチの香り03」‐No.13-2016年7月30日



★☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メールマガジン「世界街角通信MM」第264 2016730
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★★★

皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。

神の思し召しにより201510月中旬より「アフリカの角」地域、アビシニア高原
のアジスアベバに滞留しています。バックログながら半年ほど時間を巻き戻しつ
つ「アフリカの角にて」を備忘録的に筆者の琴線に触れたことをお届けします。

今号はNo.13「ジブチの香り-その3」です。

▼目次
■カジノ・スーパーマルシェ Casino Supermarche
Lac Assal アフリカ大陸で最低の標高
■ジンベイサメウオッチング
■メネリク2世広場とアル・シャバブによるテロ
■ジブチのレストラン
■ジブチ空港から離陸するミラージュ
■■後記

★本文★

今年の1月に初めてジブチへ行きました、その時は今の季節のように暑くなく、
と言ってもアジスアベバからでは暑かったのですが、その時の印象等をご紹介し
ます。

■カジノ・スーパーマルシェ Casino Supermarche

エチオピアから行くと誰もが驚きますが、単なるスーパーマーケットです。仏系
なのでスーパーマルシェです。ジブチではアイコン化している印象です。食品は、
チーズを含めてフランスからの輸入品が多く品揃えが豊富ですが、輸送コストが
付加されたお値段となっています、よって、手放しで買い物はできません。

Casino Supermarche

仏語を解さないと商品のラベルが読めません、英語もあるのかと探しますが、基
本は仏製品なので英語が見つかりません。先日買った2リットルのオレンジジ
ュース、この程度はわかります、そして、並みの美味しいオレンジジュースでし
た。

オレンジジュース

20161月、6月)

Lac Assal アフリカ大陸で最低の標高

前号でも触れたかもしれないが、ジブチにはアフリカ大陸で標高が最も低い場所
がある。それはアッサル湖、マイナス155m

昨年までは真っ白な塩浜(塩が凝結している)だったようだが、やや茶色になっ
ている。これは付近の道路工事による土が風で飛んできたのであろう、やや残念
な光景だった。

この土地、アファル人が塩を切り出し、ダナキル砂漠を横断し、エチオピアの北
部メケレ等に駱駝のキャラバンで運んでいる。非常に厳しい環境ではあるが、ア
ファル人の主な生業である。

エチオピアを知るための50章、コラム1「アファル人の塩の隊商」にその厳しさ
が紹介されている。


20161月)

■ジンベイサメウオッチング

ロンリープラネットのエチオピア、ジブチ、ソマリランド編の315頁(第5版、20
136月)にWhale-Shark Spottingの項目があり、Ghoubbet湾がジンベイサメウ
オッチングで世界で最も良い場所の一つとの紹介があります。シーズンは11月か
1月です。

Snorkelling with whale sharks in Djibouti

The hunt to save the world's biggest fish

■メネリク2世広場とアル・シャバブ によるテロ-20145

ヨーロピアンクオーター、ジブチの旧市街の中心にメネリク広場と称する広場が
あり、その広場に面して建物が建ち、1階がショップやレストランとなっていま
す。

この広場に面したレストランで、2014524日に爆弾テロがありトルコ人が亡
くなっている。この事件に関してアル・シャバブ が犯行声明を出している。米
国大使館はじめ、各国が危険情報を発している。

この影響でこの周辺のホテルに宿泊できないが、一般の観光客は利用している。
今年1月にジブチへ行った時に日本人ツアー観光客が宿泊していた。

State Dept. on May 24 Al-Shabaab Attack in Djibouti

Security Message for U.S. Citizens: Djibouti (Djibouti), Bombing in Mene
lik Square

アル・シャバブ (ソマリア)

■ジブチのレストラン

基本的にコストパフォーマンスは悪いが、食べなくてはならない。以下、筆者が
食事をしたレストランです。自ら選んだのは無く、同行者やジブチ滞在者のアレ
ンジにお任せした。レストランでは無いが、町中のグローサリーで作っているチ
キンサンドイッチ、Dfr.500-600だった記憶、がとても美味しく筆者向きであっ
た。

Cafe de la Gare
味もいいがかなり高くなる、仏ワインもあるが特に高い。東京でフランス料理を
食べられる程度。先日はUSD85相当だった。
+253 21 35 15 30
20161月、6月)

Restaurant Djibouti Melting Pot
Japaneseとのことですが、和食ではない。コストパフォーマンスは悪いが他にな
いので。夕食でUSD30相当だった。
Rue Bernard Djibouti, Djibouti,
+253 21 35 03 99
20161月)

La Mer Rouge
空港に近い、シーフードレストラン、高めだがLa Gareほどではない。USD30-40
相当。
+253 21340005
20161月)

越南飯店 Restaurant le Vietnam
旧市街の中華料理屋、ベトナムではない。ここはジブチにあってはリーズナブル。
ランチだったのでUSD15相当であった。
20166月)

Restaurants in Djibouti City-Lonely Planet
Restaurants in Djibouti -tripadvisor

■ジブチ空港から離陸するミラージュ

アジスアベバへ戻るフライトを搭乗口で待っていたら轟音と共に戦闘機が滑走路
を離陸のために走ってきて、ターミナルの前を横切って行った。

下記リンクの写真はその時のもの。戦闘機は、良く見えなかったが形状から仏空
軍のミラージュ戦闘機と思われる、3機編隊でジブチ空港の滑走路を離陸のため
走行していた。この後、3機連続で離陸した。

滑走路の向こう側に見える輸送機が駐機しているのは米軍基地、自衛隊基地もこ
の空港に隣接している。


20161月)

★本文ここまで★

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■■後記

ジブチの香り、No.3でひとまず終了です。気が付いたこと等ありましたら追って
レポートします。

あの暑さからは、信じられないほど、当地、寒いです。寒いと言っても最低気温
10度程度、しかし、暖房設備があるわけでもなく、その寒さを考えた建築でも
なく、底冷えの感じです。

長い長い喉風邪がやっと治りかけたら、腰の調子が良くない、寒さの中で変な姿
勢を長時間取っていたのであろうか。

★☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メールマガジン「世界街角通信MM」第264 2016730
発行責任者:飯尾彰敏
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2016年7月24日日曜日

【世界街角通信MM】第263号アフリカの角にて「ジブチの香り02」‐No.12-2016年7月24日



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メールマガジン「世界街角通信MM」第263 2016724
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皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。

神の思し召しにより201510月中旬より「アフリカの角」地域、アビシニア高原
のアジスアベバに滞留しています。バックログながら半年ほど時間を巻き戻しつ
つ「アフリカの角にて」を備忘録的に筆者の琴線に触れたことをお届けします。

今号はNo.12「ジブチの香り-その2」です。

▼目次
■ジブチ概要
■ジブチ独立まで
■日本とジブチの関係
■ジブチの自衛隊
■■後記

★本文★

今年の1月に初めてジブチへ行きました、その時は今の季節のように暑くなく、
と言ってもアジスアベバからでは暑かったのですが、その時の印象等をご紹介し
ます。

■ジブチ概要

ジブチは紅海の出入り口であるアデン湾に面したアフリカ大陸側、大地溝帯の北
端に位置し、標高はアッサル湖のマイナス155m(アフリカ大陸最低地点)から
ムーサ・アリ山(3カ国の国境)の2020mまで、1500m地点にはForet de Dayが広
がり、中央部はバラ砂漠が広がっている。また、エリトリア、エチオピア、ソマ
リアの3カ国に接している。

国土面積は2.3万平方キロ(四国と同程度)、人口約90万人、そのうち約65万人
がジブチ市に集中している。これは、国土のほとんどが砂漠地帯であり非常に暑
い気候条件から海に面しているジブチに集中している。

自然条件が厳しいので食糧のほとんどは隣国、特にエチオピアやソマリランド
(ソマリア)からの輸入に依存している。

経済活動は、内陸国向けの港湾サービスが主な産業であり、内陸部では遊牧民が
生活している。民族構成は、ソマリア系イッサ人が約60%、アファル人が約35%
あり、それぞれの民族は、エチオピアとソマリアと同じ民族である。

ジブチは、1977627日にフランスから独立、外務省のジブチ共和国は以下の
通り、近年ではソマリア沖海賊対策のために同盟国同様に自衛隊が基地を置いて
いることから、関係が密になってきている。他方、一帯一路の政策を掲げる中国
も軍事拠点構築を模索し、ジブチ市の新設港湾であるDoraleh多目的港の半分を
軍事施設として利用しようとしている。

China military to set up first overseas base in Horn of Africa

Doraleh Multi-Purpose Port

Why China's Djibouti Presence Matters

インド洋を隠然と制する中国

中国がジブチに「海外初」の基地 海軍の補給拠点、欧米警戒 北アフリカや中東にらみ即応可能に

以下、外務省のジブチ共和国概要より。

1.政体 共和制

2.元首 イスマイル・オマール・ゲレ大統領

3.議会 国民議会(65議席)

4.政府
    1)首相 アブドゥルカデル・カミル・モハメッド
    2)外務・国際協力相 マフムッド・アリ・ユスフ

5.主要産業
運輸(ジブチ鉄道、ジブチ港湾サービス)

6GNI 14.56億米ドル(2013年:世銀)

7.一人当たりGNI 1,270米ドル(2009年:世銀)

8.総貿易額(2012年:EIU
    1)輸出 1.14億米ドル
    2)輸入 5.65億米ドル

9.主要貿易品目
    1)輸出 車両(再輸出品)、現地製造品
    2)輸入 食料、石油製品、カート、機械・電機器具

10.主要貿易相手国(2012年:EIU
    1)輸出 ソマリア、アラブ首長国連邦、イエメン、エジプト
    2)輸入 中国、サウジアラビア、インド、インドネシア

11.通貨 ジブチ・フラン(Dfr

12.為替レート 1米ドル=177.7ジブチ・フラン(固定レート)

■ジブチ独立まで

1859年、スエズ運河建設が始まった年、フランス第二帝政(ナポレオン3世)は
ジブチの北岸、タジュラ湾のオボック港をダナキル族から租借し、その後、1862
年に購入している。フランスはここにフランス・エチオピア通商会社を設立し拠
点とした。

1868年、英国がエチオピアに侵攻した(アビシニア出兵)。

1884年、英国がWarsangali Sultanate(現在のソマリランド)に侵攻、植民地化
し英国領ソマリランドとした。

1889年、エチオピア帝国の皇帝メネリク2世はイタリア王国とのエリトリア戦争
に敗れ、ウッチャリ条約(Treaty of Wuchale)を締結、エチオピア帝国はイタリ
ア王国へエリトリアを割譲、エリトリアはイタリア領エリトリアとなった。

1894年、メネリク2世はイタリアから距離を置きつつ軍事力増強のためにフラン
スに接近、ジブチ市からエチオピアのハラールまでの鉄道敷設権をフランス企業
に付与した。

Djibouti Ethiopia Railway

1896520日、タジュラ湾周辺に勢力を拡大したフランスは、第一次エチオピ
ア戦争(18956 - 189611月)中にフランス領ソマリ(1896 - 1967年)
としてこの地を植民地化した。ジブチ港からエチオピアのアディスアベバとを結
ぶ鉄道(現在のジブチ・エチオピア鉄道)が建設されるとジブチ港の重要性は高
まった。

1900年、ムハンマド・ビン・アブドラがイギリス領ソマリランドで蜂起し(ソマ
リランド戦争)、デルヴィッシュ国を建国。エチオピア帝国皇帝メネリク2世は、
イギリスと共同でデルヴィッシュ国を攻撃した。

1908年までにイタリアは、インド洋沿岸部の植民地から進出したイタリアはイタ
リア領ソマリランドの形成に成功した。他方、英国は内陸部から撤退した。

1913年、皇帝メネリク2世が死去すると、ムハンマド・ビン・アブドラは、新皇
帝リジ・イヤスと婚姻関係を結ぼうとした。第一次世界大戦が勃発するとリジ・
イヤスは、枢軸国のオスマン帝国やドイツと同盟してスエズ運河を経由するイギ
リスとインド・東洋間の連絡線を脅かし(南アラビア戦線、シナイ半島・パレス
チナ戦線)、エチオピアを取り囲む英仏伊の全てを敵とした。

1916927日、エチオピアでクーデターが起こり、リジ・イヤスは廃位された。

19201221日、ムハンマドが64歳で病死し、20年に及んだソマリランド戦争が
集結したは。

1947年、第二次世界大戦後、フランス領ソマリにはソマリ系のイッサ人とエチオ
ピア系のアファル人の対立のために複雑を極めた独立問題は進まず、フランスの
海外県に留まっていた。

1967年、住民投票によって引き続きフランス領であることを選択した後、フラン
ス領アファル・イッサ(1967 - 1977年)と改称された。

1977年、議会選挙でアファル人の進歩党が圧勝。また、イッサ人を基盤とする独
立アフリカ人民同盟も勢力をのばし独立を要求し、ジブチ共和国として独立した。
イッサ人出身のグレドが大統領に就任、しかし、民族対立はおさまらず、1991
にジブチ内戦が勃発。グレド大統領は脱部族政策を打ち出すとともに大統領の直
接選挙制をも導入し、1993年に4選された。

1999年、グレド大統領の後継ゲレが大統領に当選、2001年に内戦が終結した。

wiki等を基に編集)

■日本とジブチの関係

日本との関係は第2次大戦前に遡るが具体的に人や物が行き来したかどうかは不
明、しかし、下記のような商工省貿易局の情報と思われる内容が昭和9年の新聞
に掲載されている。実際にはジブチではなく、その後背地のエチオピアの鉱物資
源や綿花等の記述である。つまり、ジブチは港湾都市と言う意味での関係となる。

エチオピアの輸出品目がコーヒーや皮革製品等、現在と同じであることが興味深
い。

Djibouti Ethiopia Railway

「輸出品のうちその九割は皮革とコーヒー、また輸入品の五割は綿花製品であ
る」

「鉱業方面は相当優勢で西南地方からは砂金が採れ、・・・」

「この外チグレ、エナレア地方から鉄、西部高原から石炭、チグレ、エリトリア
地方から岩礼が採掘されてをりまたハラール地方には石油の発源地が横はってい
る、」

「本邦の渇望している棉花、鉱産物の提供者本邦の資本と工業製品の注ぎ込むべ
き新天地として、将来の友邦国たる我がエチオピア国は、更に産業的な結婚をも
申込んでいる」

国民新聞 1934.2.11(昭和9)
エチオピア国と産業縁談
我が意を得たのは棉花と鉱産物
資本家と工業家には新天地商工省も一肌ぬぐか
国民新聞 1934.2.11(昭和9)

▼独立後の日本との関係

1977627日、ジブチ共和国を承認。

19894月、ジブチ大使館が東京に開設、独立当初は在フランス日本大使館、次
いで在エチオピア大使館が兼轄。

1986年、南イエメン内乱から脱出した在留邦人38名がジブチに脱出した事を契機
に両国関係が緊密化。

19945月、イエメン内戦で緊急脱出した在留邦人及び邦人旅行者75名がジブチ
経由で帰国。

20093月、日本はソマリア沖・アデン湾の海賊対処のため護衛艦2隻を派遣、6
月からはP-3C哨戒機による活動も開始、双方ともジブチを拠点としており、2011
6月には航空隊の拠点をジブチに設置した。

20093月に在ジブチ連絡事務所、

20104月に兼勤駐在官事務所を設置、

20121月に在ジブチ大使館を開設した。
(外務省)

■ジブチの自衛隊

ジブチには自衛隊基地がある。そういうことは、ニュースで聞いていたがどの程
度の規模なのかはわからなかったが、その経緯と編成部隊概要は以下の通り、現
在も派遣を継続している。

2007年頃からソマリア沖やアデン湾にて海賊行為が頻発し船舶の航行の安全に支
障を来していた。

2008925日、ウクライナの貨物船「ファイナ」号が海賊に襲撃された。この
船には戦車を含む武器が多数積載されており、荷物の行き先がダルフール紛争の
続くスーダンであったため、単なる海賊事件ではなく安全保障上の事態として重
大視した米国国、EU、ロシアはこのファイナ号事件を境に対策を強化した。

2009313日、これを受けて日本政府も海上自衛隊のソマリア沖への派遣を検
討し始め、ソマリア沖・アデン湾における海賊行為対処のための海上警備行動を
発令した(閣議決定)。

2009314日、海上自衛隊の護衛艦2隻をソマリアに向けて出航させた。

現在の派遣海賊対処行動部隊編成は以下の通り、600名が駐留する。

派遣海賊対処行動水上部隊400
派遣海賊対処行動航空隊70
派遣海賊対処行動支援隊110
151連合任務部隊 20
合計 600

ソマリア沖・アデン湾における海賊対処

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■■後記
ジブチは紅海の出入口、アデン湾に面しており、安全保障上、経済上、非常に重
要なポジションにあります。

スエズ運河を航行する全ての船舶、2008年のスエズ運河通過船舶統計では21,415
隻が通過、がジブチ沖を航行しているのですから、一日当たりに換算すると58.7
隻となります。往復ですので片方向約30/日が航行していることになります。

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メールマガジン「世界街角通信MM」第263 2016724
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2016年7月23日土曜日

【世界街角通信MM】第262号アフリカの角にて「ジブチの香り01」‐No.10-2016年7月23日



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メールマガジン「世界街角通信MM」第262 2016723
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皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。

神の思し召しにより201510月中旬より「アフリカの角」地域、アビシニア高原
のアジスアベバに滞留しています。バックログながら半年ほど時間を巻き戻しつ
つ「アフリカの角にて」を備忘録的に筆者の琴線に触れたことをお届けします。

今号はNo.11、「ジブチの香り-その1」です。

▼目次
■ジブチの香り
■ジブチの朝食 at Sheraton Djibouti
■ソマリア海賊と「すしざんまい つきじ喜代村」
■衛星携帯電話イリジウムのお値段と通話料
Dibouti TelecomTurkCellの残高表示
■■後記

★本文★

260号と前後するが今年の1月に初めてジブチへ行った、その時は今回のように
暑くなく、と言ってもアジスアベバからでは暑かったが、その時の印象をご紹介
します。

■ジブチの香り

ジブチ、暑いけどこれでも一年で一番涼しい季節、なので蚊がいるとのこと、暑
い時期は蚊も棲めないようだ。

ジブチの季節は3シーズン、「hot, hotter, hottest」と言われている。今年の
初めにジブチへ出張した時は、hotなのであろう、ジブチでは最も気温が低い時
期であった。

さて、ジブチの物価は高い、何でも高い、ホテルも食事も日用品も、これはほぼ
100%輸入されているからだ。野菜はエチオピアとソマリランドから、その他はド
バイやフランスのようだ。

カジノという仏系スーパーマーケットが空港近くにある。品物は普通に豊富、ア
ジスアベバとは雲泥の差、欧州並みか?いやそれほどでもない、販売されている
のは輸入品が目立つ、特にフランスからの。なので皆高い。気になるのはチーズ
だ。

ジブチは暑いので昼休みが長く、店は16:00から開く。両替商も然り。XXX広場に
面するインド人経営の両替商に来た。どうもこの広場がジブチの中心のようだ。

広場に面してホテル、レストラン、銀行、商店、土産物屋等の商業施設が並んで
いる。真昼間なので人通りは少ない。両替商の営業時間も16:00から、それを見
計らってきたので既に日差しはピークを越えているのに、まだ強烈だ。

建物ンの窓や入り口のデザインやシルエットがアラブ世界を感じさせる。

両替商の目の前に土産物屋があったので覗いたがケニヤやタンザニア産と思われ
る木彫りが多かった。

広場の片隅にチャートという覚醒作用のある葉を販売する専門店もみえる。店の
扉にその葉が描かれている。ちょっと見ない街の風景だ。

本日、土曜日は休日、ジブチではイスラム教国なので金曜と土曜が休み。

街はアラブの香りがする、アラビア語と仏語が公用語。

20161月)

■ジブチの朝食 at Sheraton Djibouti

今朝の朝食、目玉焼きに醤油をと思い聞いてみたがあっさり無いと言われた、ア
ジスアベバの中級ホテルでも出してくれたのに。シェラトンとはいえ、そこまで
は対応していなかった。

気温が高い国なのでフレッシュミルクは無いと想像していたがその通りでロング
ライフミルクを容器にいれていた。なので、シリアルには、たまたま水分が多い
ヨーグルトがあったのでそれを入れてみたら丁度ヨよかった。

このホテル、ドイツ軍が宿舎として利用しているので朝から迷彩服の軍人が目立
つ。自衛隊も休暇なり食事に利用しているようだ。

ランチブッフェはDfr.6000だった記憶。

20161月)

■ソマリア海賊と「すしざんまい つきじ喜代村」

ジブチで聞いた「つきじ喜代村 すしざんまい」の対ソマリア海賊での話。

年間300件の海賊がゼロになった・・・はややオーバーな表現だが、ソマリア沖、
アデン湾はキハダマグロの漁場、マグロの買い手がいれば海賊より高収入になる
のは明らか、その結果、海賊が減る。

20161月)

■衛星携帯電話イリジウムのお値段と通話料

携帯電話が繋がらないことを想定してイリジウムを持ってきた。実際には携帯電
話のカバレージは広く通常は問題ないが、貸与携帯がプリペイドなのでエチオピ
アへ電話をしたら直ぐにクレジットが無くなってしまった。

しかし、その土地は石だらけの荒野では携帯電話のクレジットを買えるショップ
もなく人も住んでいないところだった。

使っているイリジウムがどういうものなのか、使用している本人が知らないのは
理不尽と思ったので調べてみた。通話料金だけを日本の携帯電話と比較すると高
くはない、auののローミング料金は1分380円なので。

本体 9555の場合、238000

通話料金
契約料金10000
月額基本料金5000
固定携帯電話 63/20 =189/

基本料金6000円の場合、やや安い。

ローミング料金、当地エチオピア向け、380/分の半額程度ということ。

20161月)

Dibouti TelecomTurkCellの残高表示

両キャリアとも使用した直後に下記のような残高が表示される。

TurkCellの残高(トルコ語表記)は60TL2400円相当)なのでしばらく大丈夫だ
ろう、確か6か月間はSIMが有効なはずだ。途中、オンラインでもリチャージが可
能だ。


そして、こちらはジブチテレコムの表示、フランス語で残高が表示される。

23.16FDJと表記されているがDfrと通常表記する、フランス語なので順序が逆に
なったのか、Dfr.23.16だとUSD175だったので、15.88円相当の残高、プリペイ
ドチャージは1週間程度しか有効でない。そして、このSIM、いつまで有効なのだ
ろうか?

SIMDfr.2000だったので1371円相当だった。

Dibouti TelecomTurkCellの残高表示

20161月)

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iPhoneで受信した場合、改行がPC用に72文字になっており、iPhoneの画面サイ
ズで自動的に改行されています。悪しからず。

■■後記

ジブチはアラブ世界、旧市街へ行くと馴染みのある風景が飛び込んできた。それ
ほど大きくない旧市街だが、趣があって筆者は好きだ。

仏語というのもその昔筆者が訪れたモロッコのカスバ(かなり遠いが)を連想さ
せてくれた。

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