2023年8月15日火曜日

【世界街角通信MM】第396号 ナホトカ航路シベリア鉄道-2023-08-15

 ★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第396号 2023年8月15日★★★


皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

▼目次
■1985年7月8日、モスクワ・ヤロスラブリ駅着、コスモスホテルにチェックイン
■■編集後記

★本文★

■1985年7月8日、モスクワ・ヤロスラブリ駅着、コスモスホテルにチェックイン

1985年7月5日にイルクーツク駅から乗ったロシア号は3泊4日を要してモスクワ・
ヤロスラブリ駅に着いた。イルクーツク駅を出てから駅周辺以外、列車から人家
が見えなかったが、4日目、モスクワに近づいているのだろう、農家やアパート
群が車窓から見えた。

7月8日(火)、ロシア号は定刻通りの16:40にモスクワ・ヤロスラブリ駅に到着
した。ヨーロッパの都市にある駅と同様に、終着駅で行き止まり、その先が駅舎
だった。特に案内はなく、インツーリストの窓口へ行くということだけだった。
マリーナとはここでお別れとなった。筆舌に尽くし難いほどたいへんお世話にな
った。

ロシア号を降りてバックパックを背負ってホームを歩いて駅舎へ向かった。写真
はその時の撮った。駅構内のインツーリスト窓口へ行くと既に連絡が入っていて
ここで待つようにと案内があった、その時に対応してくれたのも日本語ができる
女子学生だった。こどもの頃、東京に住んでいてNHKのロシア語会話に出演して
いたという、現在はモスクワ国立大学アジア・アフリカ学部で日本語を専攻して
いるとのことだった。

タクシーが来たのでそれに乗るようにと案内があり、その彼女とはその時だけだ
った。白だったか覚えていないがボルガという大きなセダンだった。どこをどう
やって走ったのか憶えていないが宿泊先はコスモスホテルだった。

Hotel Cosmos
150, Prospect Mira
Moscow, 129366, Russia
https://www.hotelcosmos.ru/eng/

このホテルはモスクワオリンピックに際して新たに建設れた大規模なホテルで、
VDNKhの前に位置していた。予定ではこのコスモスホテルに一泊して翌7月9日
(水)の夜行列車ででキエフへ向かう予定になっていた。

レセプションでチェックイン手続きをしパスポートを預けた。翌日に取りに来る
ように説明があったと思う。大都市モスクワの大ホテルという印象(500室以
上)、エントランスホールも大きく、レセプションにも人が多かった。

部屋の番号を告げられ部屋のある階でEVを降りて廊下の入り口に鍵おばさんがい
た。ここで部屋の鍵を受け取るシステムだった。 何かねだられたようだったが、
気に留める余裕もなく先へ進んだ、誰にでもそう強請っている感が強かった。

部屋はスタンダードなツインルームのシングルユース、壁側にデスクとTVもあっ
た、今でも十分機能するレイアウトで広めだった。バスルームにはバスタブがあ
り、こちらも広くゆったりとしていた、もちろんお湯もでた。インツーリストホ
テル・イルクーツクで気が付いたが、バスルームにはスチームのパイプが洗濯物
を乾かすように配置されていた。もちろん暖房用にはヒーターパネルが設置して
あった。夏でもこの洗濯物用パイプには熱が通っていた。それと同じシステムの
パイプがバスルームに敷設してあった。日本でもこのような設備があってほしい
が、寒冷地ゆえの設備なのだろう。
部屋はVDNKh側で正面に宇宙飛行士記念博物館の宇宙征服者のオベリスクが、そ
して、モスクワOstankinoテレコムタワーが窓から望めた。前の通りはMira通り
といい、VDNKh地下鉄駅もそこにあった。

夕飯をホテルのレストランで食べたと思うが、何をどう食べたのか記憶に残って
いない、ビーフストロガノフの一つ覚えで対応したのかもしれない。同じテーブ
ルに香港からの旅行者がいたと思う。

暗くなってからロビーに降りて人を観察をしていたら、ベリョースカ(白樺)と
いうドルショップが、端にはカウンターバーがあり、女性が何人か座っていた。

ホテルエントランスに目を向けると民警が複数人立っていた。よく見ていると、
女性は入る時に民警にチップらしきマールボロを渡しているのがわかった。それ
で、夜の蝶は出入り自由になっているようだった。このホテルは外国人専用なの
で、ここでは何でもUSD建てだった。

旅の汚れを落とし、バスタブにお湯を張り疲れを癒した。ホテルのベッドの上で
寝られるのは何と心地よいのかと、疲れもありそのまま寝入ってしまった。モス
クワまで来ているのだから、もっとモスクワをと頭は考えたが身体の疲れが勝っ
ていた。

共産主義時代を旅して-ソ連・東欧1985年夏
http://1985.iio.org.uk/index.html

元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2023/07/198578.html

★本文ここまで★

▼前号目次
■1985年7月5日、バイカル湖畔の観光村Listvyankaその2
■1985年7月5日-8日、イルクーツクからモスクワへ、その
■■編集後記

■■後記

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

注)このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情報や印象を記
録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始たもので創刊
はタシケント到着後の2009年月14日でした。

また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
▼note klubnika report
https://note.com/klubnika

■Facebookのグループで下記の2グループを運営しています。
★CA+C 中央アジア・コーカサス地域研究会(グループ)
http://www.facebook.com/groups/298398100231283/

★R+EE 露・東欧地域研究会(グループ)
https://www.facebook.com/groups/436215346470056/

★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第396号 2023年8月15日
発行責任者:飯尾彰敏
Copyright(c) Akitoshi Iio All Right Reserved.
twitter:https://twitter.com/iioakitoshi
ご意見・ご感想:http://form.mag2.com/slicleapru ★★★

2023年8月12日土曜日

【世界街角通信MM】第395号 ナホトカ航路シベリア鉄道-2023-08-12

 ★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第395号 2023年8月12日★★★


皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

▼目次
■1985年7月5日、バイカル湖畔の観光村Listvyankaその2
■1985年7月5日-8日、イルクーツクからモスクワへ、その

■■編集後記

★本文★

■1985年7月5日、バイカル湖畔の観光村Listvyankaその2

1985年7月5日(土)、その2

イルクーツクのインツーリストホテルからバイカル湖畔の観光村Listvyankaへバ
スで向かった。約70kmの距離、小一時間のバスの旅だった。横浜大桟橋から一緒
だった旅行者のなかでイルクーツク下車した全員(目的はバイカル湖観光のみ)
が参加していた。

長袖か上着が必要な気温だった。観光村Listvyankaの近くでバスを下り、夏の草
花、村の木造家屋、装飾した木窓、道端で遊ぶ子供たち、ハイライトは木造の聖
ニコライ教会、蝋燭が灯され礼拝が行われているようだった。ここだけ特別なの
だという説明だったような。そのあと、湖畔からやや小高い場所にあるバイカル
ホテルの食堂でバイカル湖産の白身魚オームリのヨーグルトソースかけを味わっ
た。

バイカルとはタタール語で豊かな湖という意味、イルクーツクには、江戸時代、
漂流民の大黒屋光太夫一行がしばらく滞在している。第一次世界戦の連合国側
として日本軍は1918-22年にシベリアへ革命軍に捕らわれたチェコスロバキア軍
の救出を目的に共同出兵を行ない、イルクーツクにも多くの兵力が駐留した。

バイカル湖は世界で最も深い湖1620m、そして大小336の河川が流入し、流れ出る
河川は唯一アンガラ川だけである。エニセイ川へ合流して北極海へ注ぐ。

この近くに日本人抑留者墓地がある、そのことは数年前に知ったに過ぎない、ロ
シア企業が日本人墓地を整備したというニュースからだ。

東シベリアの日本人抑留者墓地、ロシア企業が整備
2016年10月23日
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM23H2E_T21C16A0000000/

リストヴャンカ(バイカル湖畔の村)の日本人墓地
http://hashim.travel.coocan.jp/siberia/0730/02.html
http://1985.iio.org.uk/index.html

元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2023/07/198575.html

■1985年7月5日-8日、イルクーツクからモスクワへ、その

1985年7月5日(土)から8日(火)その1、

バイカル湖観光村Listovyankaでバイカル湖産の白身魚オームリのランチの後、
来た道を戻るようにしてイルクーツクへバスで戻り、前日下車したイルクーツク
駅からこの日のロシア号に乗車した。

イルクーツクはモスクワから5191km、モスクワ・ヤロスラブリ駅0km/9446kmまで
ここから車中3泊4日、ひたすら西へ西へと5000kmを走る。地形はほとんど平地
(車窓の風景が変わらないことを意味する。)、クラスノヤルスク4104km/9446km、
ノボシビルスク3343km/9446km、チュメニ2144km/9446km、スヴェルドルフスク
(エカテリンブルク)1818km/9446km、ペルミ1437km/9446km、キーロフ957km/9446
km、ヤロスラブリ282km/9446km、モスクワ0km/9446kmとなる。

クラスノヤルスク手前でエニセイ川を、ノボシビルスクでオビ川を横断した。そ
の際、撮影禁止のアナウンスがあった。

客車は2等寝台の4人部屋、イルクーツクまで一緒だった仏人2教師は空路でモス
クワへ移動したのだろう、既にその二人の姿は見えず、もう一人の日本人は同じ
コンパートメント、停車する度にその空き2ベッドにソ連邦の乗客が乗ってきて
降りていった。ある駅で、乳児と娘のロシア人母子が乗ってきた。外国人はそれ
ほど珍しくないのか、それとも中央アジア出身と思ったのか、まったく関心も持
たれずだった。

食事は食堂車で毎食食べた。概ね同じメンバーで食べていた。メニューからスー
プかサラダとメインを選んでいたと思う。何を注文してよいのかわからずイン
ツーリスト添乗員のマリーナにアイデアを出してもらっていた。選択肢は多くな
いのでも直ぐに最初のメニューが繰り返された。黒パンは常にあった。食事代は
1ルーブルプラス程度だった記憶だ。

また、停車した駅で売っていた茹でたジャガイモを摘んだりした。客車の前後に
サモワールがありティは常に飲めた。

元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2023/07/198575-8.html

★本文ここまで★

▼前号目次
■1985年7月4日、アンガラ河畔のインツーリストホテル・イルクーツク
■1985年7月5日、バスでバイカル湖へ、その1
■■編集後記

■■後記

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

注)このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情報や印象を記
録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始たもので創刊
はタシケント到着後の2009年月14日でした。

また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
▼note klubnika report
https://note.com/klubnika

■Facebookのグループで下記の2グループを運営しています。
★CA+C 中央アジア・コーカサス地域研究会(グループ)
http://www.facebook.com/groups/298398100231283/

★R+EE 露・東欧地域研究会(グループ)
https://www.facebook.com/groups/436215346470056/

★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第395号 2023年8月12日
発行責任者:飯尾彰敏
Copyright(c) Akitoshi Iio All Right Reserved.
twitter:https://twitter.com/iioakitoshi
ご意見・ご感想:http://form.mag2.com/slicleapru ★★★

2023年8月11日金曜日

【世界街角通信MM】第394号 ナホトカ航路シベリア鉄道-2023-08-10再送

 ★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第394号 2023年8月10日★★★


第394号、不備がありましたので再送いたします。

皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

▼目次
■1985年7月4日、アンガラ河畔のインツーリストホテル・イルクーツク
■1985年7月5日、バスでバイカル湖へ、その1

■■編集後記

★本文★

■1985年7月4日、アンガラ河畔のインツーリストホテル・イルクーツク

1985年7月4日(木)、

横浜港大桟橋からの一行はイルクーツク駅で下車、4日目の陸上(鉄道上ではな
い)、イルクーツク駅からバスでインツーリストホテルイルクーツクにチェック
イン、丁度、ホテルはイルクーツク駅のアンガラ河対岸に位置していた。21時過
ぎ、未だ明るかったのでアンガラ河畔に出てみたいと思っていたところ、我々の
グループにナホトカの太平洋駅から一緒だったインツーリスト添乗員のマリーナ
がいたので誘ってお話した(日本語会話の練習のような感じで)。写真はセルフ
タイマーで撮った。

全く予想していなかったが、河畔に留まることの厳しさを数分後に認識し、直ぐ
にマリーナとホテルに戻った。それは、蚊の襲撃、かなりしつこくこんな軽装で
は防御のしようがなかった。

既に日没、暗くなりつつある時間だったので市内行くことはしなかったが、ホテ
ル近くの大通りから街並みを眺めた。ポプラの葉が茂り綿が飛んでいてよく見通
せず街並みの建物の一部を見ただけだった。翌朝は、バイカル湖ツアーへ行く予
定になっていた。

http://1985.iio.org.uk/index.html

元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2023/07/blog-post_4.html

■1985年7月5日、バスでバイカル湖へ、その1

1985年7月5日(金)、

前日の7月4日21時ごろ、シベリア鉄道のロシア号はイルクーツク駅に着いた。こ
のまま乗っていればモスクワ・ヤロスラブリ駅へ向かうが、横浜港からの多くの
同行者がここで一泊し、バイカル湖を観て翌日の同じロシア号でモスクワへ向か
う日程にしていた。私も同様に、このコースとした。ナホトカで鉄道に乗車した
のは7月1日の夕刻、下車したのが7月4日の夕刻、途中、ハバロフスク駅で乗り換
えたが。

この日はバイカル湖畔の観光村をバスで往復し、夕刻に昨日下車したイルクーツ
ク駅から同じロシア号に乗車し、モスクワへ向かう予定であった。

朝、荷物は部屋に残したのかレセプションに預けたのか覚えていない。預けてか
ら出かけるのが通常だろうが、朝食を済ませて部屋に出かける荷物を取りに戻り、
再度EVに乗り、丁度、マリーナも乗ってきた、ということは私の部屋は上階だっ
たのか、ロビーへ降りようとしてEVの扉が締まり、下がっていたが階と階の間で
ガツンという音とともに止まった。

軍服の人が非常電話で連絡したが、直ぐに動く気配はなかった。こういう時は待
つのだとマリーナが説明したが、30-40分経っても動かず、他の人は焦る気配も
なくロシア語でお話ししていた。その後、動き、何事も無かったかのようにロ
ビーへ降りてバイカル湖行きのイカルスバスに乗った。ハバロフスク駅での一件
もそうだが、何かと事が起きた、私的には、がEV事件は日常的なことなのか?

バイカル湖観光(Listvyanka)は外国人旅行者用に仕立ててあり、写真撮影の制限
はなかった。自然や村の風景、木造家屋、バイカル湖の漁船など。


元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2023/07/198572.html

★本文ここまで★

▼前号目次
■1985年7月2日、ハバロフスクでロシア号へ乗換え+事件
■1985年7月4日、イルクーツク駅着
■■編集後記

■■後記

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

注)このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情報や印象を記
録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始たもので創刊
はタシケント到着後の2009年月14日でした。

また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
▼note klubnika report
https://note.com/klubnika

■Facebookのグループで下記の2グループを運営しています。
★CA+C 中央アジア・コーカサス地域研究会(グループ)
http://www.facebook.com/groups/298398100231283/

★R+EE 露・東欧地域研究会(グループ)
https://www.facebook.com/groups/436215346470056/

★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第394号 2023年8月10日
発行責任者:飯尾彰敏
Copyright(c) Akitoshi Iio All Right Reserved.
twitter:https://twitter.com/iioakitoshi
ご意見・ご感想:http://form.mag2.com/slicleapru ★★★