2023年3月21日火曜日

【世界街角通信MM】第377号 ソフィア・プノンペン-2023-03-19

 ★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第377号 2023年3月21日★★★


皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
年が明け令和五年、西暦2023年です。
視野に入り気になったことなど備忘録的に書いています。

▼目次
■ソフィアのヴィトーシャニューオータニ
■プノンペン、トゥクトゥクの定義と配車アプリ
■■編集後記

★本文★

■ソフィアのヴィトーシャニューオータニ
東側で日本人が関係したホテルにはブルガリア・ソフィアのVitosha New Otani
がある。21階建、442室。黒川紀章が設計、建設はブルガリアのTehnoeksportstr
oyと三菱のJV、黒川は設計に際してBulgarian National Revival style of Kopr
ivshtitsa and Plovdivを参照している。プロブディフは古都でありコプリニシ
ティッツァは農村、ブルガリア民俗、木造の出窓はオスマン帝国の影響なのかも
しれない。

建設にあたって円借款が供与されている、これは当時の社会党衆議院議員であり
東海大学創立者である松前重義が強く関係していたようだ。

(1)ソフィアホテル建設計画(48億3,200万円、1975年交換公文署名)
https://www.bg.emb-japan.go.jp/jp/oda/economical_collaboration/index.htm
l

開業は19795月24日、1994年にはIntercontinentalに、1997年にはKempinski Hot
el Zografski Sofia、2014に現在のHotel Marinela Sofiaになっている。

1988年と1989年にはWTAテニストーナメント会場となった。

1996/97年、ブルガリア国鉄業務でソフィアに出張、この旧ヴィトーシャニュー
オータニ、Intercontinentalに宿泊していたが、途中で売却されKempinski Hote
l Zografski Sofiaになった。その時、ブルガリア経済危機の最中でVISAを扱っ
ていた農業銀行が破綻し、ホテルからクレジットカード支払いが停止しており、
支払いは現金か銀行送金で支払うよう要請があった。

元記事
https://eastriver229.blogspot.com/2023/03/blog-post_17.html

■プノンペン、トゥクトゥクの定義と配車アプリ

プノンペンでの配車アプリ、PassAppとGrabが使え前者は現金のみ、トゥクトゥ
クも呼べるとの説明だったがアプリでの車種が若干異なり、日本人の間での車種
定義の曖昧さに気が付いた。今プノンペンにいないのでスクリーンショットが撮
れないが、PassAppではトゥクトゥクと三輪車と表示される。

上記写真の車種はPassAppではトゥクトゥクではなく三輪車(インドのBajaj)とな
り、一般的にこれをトゥクトゥクと称しているが配車アプリではそうではないの
で紛らわしい。

ではトゥクトゥクとは?これは二輪車が二輪の荷台(客車)を牽引している車種
(Long-tailed Remork)をいう。三輪車(Bajaj)よりやや大きく視界が広く快適
である。

Tuk tuks are two-wheeled carriages pulled behind a motorbike and can acc
ommodate typically up to 4 persons.

配車アプリのGrabではTuk-Tukトゥクトゥク(上記の写真)はLong-tailed Remor
kで三輪車はリクシャRickshaw(インド製Bajaj)となる。Long-tailed Remork、カ
ンボジアに居ないと表示されない、Remorkは仏語でtrailler、牽引車であろう。
下記記事に「配車アプリの普及で利用が便利になった小型タクシー「トゥクトゥ
ク」や、バイクの後ろに人や物を運ぶ荷台を付けた「ロモ」と呼ばれる車両も多
い」とあるので、区別できている人は区別できている。

https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/46455

初カンボジアの私は、PassAppでTukTuk(Bajajと信じていた)を呼んで最初はすぐ
に来たが、Bajajiではなかった。バイクが荷台を牽引しているタイプでこういう
のもあるのか、視界広く写真が撮りやすいなあ、程度の認識だったが、実はこれ
はRemorkだった。

そして、PassAppで次へ移動すべくTukTukを呼ぶが全くヒットせず、目の前を多
くのBajajの空車が頻繁に通過していく。不思議に思いながら20分待ってやっと
来たら同じバイクが牽引するタイプだった。それで何か変だぞと思い確認するこ
とにしたところ、前述の通り、TukTukだと思っていたのはPassAppでは三輪車、T
ukuTuk=Long-tailed Remorkなのでなかなか来なかったということのようだ。

料金はTukTuk(Long-tailed Remork)で2.4kmで6800KHRなので1kmあたり約2800K
HRとなる。

元記事;
https://eastriver229.blogspot.com/2022/12/blog-post_5.html

★本文ここまで★

▼前号目次
■1974年3月12日、小野田寛郎元陸軍少尉残留兵帰還
■東ドイツ時代に鹿島建設が建てたGrand Hotel Berlin
■タクロバンの老舗ホテル、ホテルアレハンドロの記憶
■■編集後記

■■後記

鼻がぐずぐず、喉がイガイガ、なんとなく嫌な予感。
それが現実となり、今週は寝込んでいた、後半は熱が下がり持ち直したが、異国
に滞在中ですが旅行保険指定の病院が近くになったので診てもらい、抗生物質を
処方された。この国、薬局で抗生物質を処方箋なしでかえるというが、未確認。

管理しているFBグループで、罵詈雑言の応酬、管理者アシスト機能があることを
知り設定してみた。

このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情報や印象を記録し
ておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始たもので創刊は2月
14日でした。

また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
▼note klubnika report
https://note.com/klubnika

■Facebookのグループで下記の2グループを運営しています。
★CA+C 中央アジア・コーカサス地域研究会(グループ)
http://www.facebook.com/groups/298398100231283/

★R+EE 露・東欧地域研究会(グループ)
https://www.facebook.com/groups/436215346470056/

★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第377号 2023年3月21日
発行責任者:飯尾彰敏
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2023年3月13日月曜日

【世界街角通信MM】第376号 東京にて(小野田寛朗、etc)-2023-03-13

 ★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第376号 2023年3月13日★★★


皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
年が明け令和五年、西暦2023年です。
東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。

▼目次
■1974年3月12日、小野田寛郎元陸軍少尉残留兵帰還
■東ドイツ時代に鹿島建設が建てたGrand Hotel Berlin
■タクロバンの老舗ホテル、ホテルアレハンドロの記憶
■■編集後記

★本文★

■1974年3月12日、小野田寛郎元陸軍少尉残留兵帰還

1974年3月12日、小野田寛郎元陸軍少尉がフィリピン・ルバング島から指揮官に
任を解かれ、実に終戦後29年を経て帰還した。この時の小野田元少尉がフィリピ
ン軍司令官に投降し、直立不動で敬礼し軍刀を差し出す映像は凛として記憶に焼
きついている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030130_00000

残留中に略奪やフィリピン軍、警察、住民を殺害したとして訴追される状況であ
ったが、当時のマルコス大統領が政治問題として処理、投降翌日のマラカニアン
宮殿を訪れマルコス大統領と面会、特赦が言い渡された。後に日本政府はフィリ
ピン世論に配慮して戦後賠償へ終了していたが、見舞金という形で3億円を拠出
している。

小野田元少尉は終戦後も4名で行動を共にしていたが、1人投降、2人戦死した。1
951年に赤津勇一元一等兵が投降、帰還したことで残留兵の存在が認識されたが、
フィリピン内政の不安定さから捜索隊を派遣できず。1954年、フィリピン部隊と
戦闘、島田庄一元伍長の遺体が確認される。1972年、フィリピン警察官と銃撃と
なり小塚金七元一等兵が射殺された。

日本政府は捜索隊を派遣するも小野田元少尉を発見出来ずだったが、この報道に
触発された冒険家鈴木紀夫が1974年に単独でルバング島へ乗り込み小野田元少尉
との接触に成功、彼の説得により、投降の決意を固めた。小野田元少尉に対して
元上官により現地で任務命令解除命令が発令され、投降した。この時ことを鈴木
紀夫は「大放浪─小野田少尉発見の旅 (朝日文庫)」(1995年)にまとめている。

帰国の際に「天皇陛下万歳」と表現したことや、フィリピン軍との銃撃戦など軍
人や住民が死傷したことが明らかになり、また、本当に日本の敗戦を知らなかっ
たのか、などマスコミからは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批
判も受けた。しかし、国家のために従軍し取り残され帰還出来なかったのだから
先ずは任務ご苦労様であろう、失礼千万なマスコミだし政府のがグリップを効か
せられなかったのは残念、帰還時に出迎えた母親の言葉「よう生きて帰ってくれ
た、」は印象的であった。

小野田自身、手記である「わがルバング島の30年戦争」(1974年)を帰国後に著し
ている、自分を美化し過ぎとの評もある。

マニラのニノイ・アキノ国際空港の横のフィリピン空軍博物館に小野田の空軍将
軍宛て手紙、ルバング島での火器や生活道具などが展示されている。

2014年の小野田の死去に際し、ニューヨーク・タイムズは「戦後の繁栄と物質主
義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤
独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、
日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」と報道した。

■東ドイツ時代に鹿島建設が建てたGrand Hotel Berlin

東ドイツ時代に鹿島建設とサブコンのSiab(スウェーデン)が建設したGrand Ho
tel Berlin。現在はThe Westin Grand Berlin。

https://www.marriott.com/en-us/hotels/berwi-the-westin-grand-berlin/over
view/

この土地には1873年に建てられたkaisergalerieというショッピングセンターが
あったが1943年のベルリン空爆で崩壊、1957年に更地へ、その跡地に西側観光客
の需要増に対応してベルリン建都750周年にあたる1987年にinterhotelがホテル
を建設した。そして鹿島建設を指名した。

1987年8月1日オープン、400室。竣工当時、日経アーキテクチャーに掲載された
ので記憶にある。1985年に東ベルリンに滞在した時には建設中だったのかもしれ
ないが、フリードリッヒ通り沿いなので記憶に残りそうだが。

1990年のドイツ統一後、東ドイツの国有資産はTreuhandanstaltの管轄となり民
営化された。 German Maritim Hotelsが運営することになりMaritim Grand Hote
l Berlinと名称を変えた。その後、その他のDeutsche Interhotels資産とともに
売却された、1997年7月1日にThe Westin Grand Berlinとなった。

2007年、ブラックストーングループがこのホテルを含む14のDeutsche Interhote
lsを買収、増改築・改装を行い、7階を増築して新たに41室を追加して2008年4月
にオープン。2014年にこのホテルを含む10 Deutsche Interhotelsを Starwood C
apital and Brookfield Asset Managementに売却した。

その記憶から2010年、パスポートの増補の際、ドイツ連邦の首都に復活したベル
リンを選んでこのホテルに宿泊した。地下にプールがあり、東側の典型的な施設
構成だと感じた。そして、1985年8月、YHからティアガルテンに沿ってしばらく
歩いたら日章旗が旗めく古典様式建物が視野に、塀はなく夏草が生い茂っていた、
そこが旧大日本帝国大使館だった、そして、現在の駐ドイツ日本大使館に引き継
がれていて、そこでパスポートの増補を申請した。

https://eastriver229.blogspot.com/2023/03/the-westin-grand-berlin.html

■タクロバンの老舗ホテル、ホテルアレハンドロの記憶

タクロバンの老舗ホテル、ホテルアレハンドロ。2回目の出張からこのホテルに
お世話になった、親米でしたね。2014年3月

神風特攻隊はレイテ沖海戦で初めて投入された。今回滞在したタクロバンは海戦
の一部が行われたレイテ湾に面している。正確にはサマール島沖であろう。そし
て、1944年11月から12末までにレイテ島での陸上戦、太平洋戦争の天王
山、では日本兵84,006が投入され79,261人(wiki)が戦死している激戦地であった、
生還率3%ととほとんどの兵士が戦死/戦病死した、その原因は補給路を断たれ
たことによる(wiki)。

タクロバンのダウンタウンにはあるHotel Alejandroは太平洋戦争中は日本軍、
その後、米軍を含む連合軍司令部として使われた。当時の写真が2階に展示され
ている。今は、台風ヨランダ災害復旧のためUNOCHA、UNDPが事務所を置いている。

★本文ここまで★

▼前号目次
■アルメニアITセクター、経済好調なれど通貨高で輸出産業へ影響
■ジョージア南部Untsa にロシア村が出現!
■元TBSモスクワ特派員の年末年始モスクワ再訪旅行記
■■編集後記

■■後記

どうする家康、かなり現代を意識か?、特に多様性云々に配慮したのであろう脚
本になっているし、側室に家康の喜ばせ方を私たちが伝授する、と正妻の築山殿
と母於大たちの台詞が何となく軽い。

鼻がぐずぐず、喉がイガイガ、なんとなく嫌な予感。

管理しているFBグループで、罵詈雑言の応酬、管理者アシスト機能があることを
知り設定してみた。

物事を対立軸でしか判断できない、もしくは対立軸で判断しようとする姿勢は稚
拙過ぎ、自分のことを棚に上げ、いかがなものか?SNSでは人が変わる。

このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情報や印象を記録し
ておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始たもので創刊は2月
14日でした。

また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
▼note klubnika report
https://note.com/klubnika

■Facebookのグループで下記の2グループを運営しています。
★CA+C 中央アジア・コーカサス地域研究会(グループ)
http://www.facebook.com/groups/298398100231283/

★R+EE 露・東欧地域研究会(グループ)
https://www.facebook.com/groups/436215346470056/

★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第376号 2023年3月13日
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