2009年11月25日水曜日

【世界の街角からMM】 第40号 タシケントの日本人抑留者 2009年11月14日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第40号 2009年11月14日
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日本との関係でウズベキスタンを考えだ場合先ず日本人抑留者が頭に浮かぶ。タ
シケントにはその日本人墓地がある。
▼目次
■日本人抑留者の墓地を知ったきっかけ
■ウズベキスタンの日本人抑留者と墓地
■シベリア抑留中死亡者名簿
■なぜ抑留か?
■国際法上の取り扱い
■■編集後記
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■日本人抑留者の墓地を知ったきっかけ
タシケントに日本人抑留者墓地があるのを知ったのは、1996年2月、初めてウズベ
キスタンへ出張した時になる。調査団長が満州からの引揚者で、是非、墓参りを
したいという希望があり、その時の出張をアレンジしたUzbektourismの案内でヤ
ッカサライ市民墓地の一角にある日本人墓地へ調査団一同で墓参りをした。

■ウズベキスタンの日本人抑留者と墓地
タシケント市内南東地区、ヤッカサライ通りに位置する公営墓地の一角が日本人
墓地として整備されている。

第二大戦直後、中国東北地方、樺太や北方領土にいた日本兵約65万人(定説)が
スターリンの指示により強制的にシベリアに抑留され長年労働を強いられ、厳し
い環境の下、約6万人の命が失われた。山崎豊子の不毛地帯を読むとその過酷さが
よくわかる。ウズベキスタンでは、そのうち2万3千人の抑留者が強制労働に従事
し、817名がウズベキスタンで帰らぬ人となっている。

ヤッカサライ墓地には、タシケントより79名、タシケント地区墓地より8名、計87
名の日本人が眠る。隣接してドイツ人墓地がある。碑には1990年5月23日、もうひ
とつに碑には1995年10月1日の日付が刻まれている。両方とも福島県という文字が
読める。この意味はまだ理解していない。

抑留者の墓地は、ヤッカサライの他、タシケント市内のヤンギュリとハムジェン
スキイに墓地がある。ウズベキスタン国内ではタシケント州アングレン市、チル
チツク市、ボスタンデクス市、フェルガナ州コーカンド市、フェルガナ州フェル
ガナ市、アンディジャン州アンディジャン市、ブハラ州カガンなど13ヶ所に日
本人墓地がある。タシケント第四ラーゲリーの約500人の抑留者がウズベク人やロ
シア人とともに建設に従事し工事が中断していたナボイバレエ・オペラ劇場(タシ
ケント)が1947年に竣工したことはよく知られている。

ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル,観客席 1,400 で煉瓦(れんが)
造りのビザンチン建築である.日本人抑留者は,土木,煉瓦積み,彫刻,鉄工,
配線,大工,左官,電気溶接,測量など多岐にわたっていた。

◆墓碑に刻印された文字
◇永遠の平和と友好
不戦の誓いの碑
1990年5月23日
日ソ親善協会福島県支部

◇永遠の平和と友好の誓いの碑
1995年10月1日
日本ウズベキスタン友好議員連盟
福島県ウズベキスタン文化経済友好協会
ウズベキスタン国際文化教育交流国民協会

■シベリア抑留中死亡者名簿
元抑留者の村山常雄さんが平成19年(2007年)7月に「シベリアに逝きし人々を刻
す」題するソ連抑留者死亡名簿を刊行されました。その名簿によれば45815名が亡
くなり、ウズベキスタンでは2456名が収容され、うち、876名が亡くなっている。
なお、ソ連における日本人収容所はシベリアから西はウクライナまで広範囲にわ
たる。

第26収容所 〔アンヂジャン地区〕 33名
第288収容所 〔ベカバード地区〕 147名
第360収容所 〔ボスタンデグスキー地区〕 13名
第367収容所 〔コーカンド地区〕 241名
第372収容所 〔アングレン地区〕 134名
第386収容所 〔タシケント地区〕 261名
所属不明 47名

村山常雄さのサイト
http://yokuryu.huu.cc/

◆関連情報リンク
共同発表:日本国政府とウズベキスタン政府との間の抑留中死亡者をめぐる人道
分野における協力(仮訳)(外務省)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_02/uz_jan_ej.html

タシケント、古里を遠くはなれ生きた年月は
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0107/olient/olient27.html

夕鶴が舞ったナボイの夏(日本ウズベキスタン協会)
http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/06_yuuzuru_
shima.html

捕虜の汗「夕鶴」に実結ぶ、ウズベク「ナボイ劇場」のオペラ公演に感激(日本
ウズベキスタン協会)
http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/04_yuuzuru_
nagata.html

シベリア抑留日記(サウンドボリュームが大きいのでMuteにしたほうが良い。)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~sho_un/sub1.htm

中央アジア地区の日本人捕虜収容所
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/chuouasia.html

ウクライナ人捕虜からみた日本人捕虜
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~abe/jaus8.html

■なぜ抑留か?
旧ソ連地域での日本人戦争捕虜の抑留は、スターリンがヤルタ会談で約束
された千島列島・南樺太の占領のみならず、トルーマンに北海道の分割占
領(留萌町から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れたが、
一蹴されたためその代償として捕虜をシベリアへ送ったという説がある。

この背景は、日本のシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本
の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない、という理由であったが、
日本の占領政策に影響を強めようとしていたと考えられいる。

■国際法上の取り扱い
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち
帰ればその捕虜の所属国が支払うことになっている。日本政府は、南方地域
で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に
基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本
政府はそれを理由に賃金を支払わなかった。1992年以後、ロシア政府は労働
証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていな
い。(wiki)

以上のような説明がwikiにあったが、ソ連の継承国家であるロシアが労働証
明書を発行し、日本政府が賃金を支払えばこの問題がすっきりするのかとい
う疑問も残る。当時のソ連政府の行動はどのように考えたらよいのだろうか。

■■編集後記
近代日本の歴史は紐解く異議があり、義務教育で詳細に教義すべき内容だ
が私自身あまり記憶にないのは文部省がさほど重視していなかったからなの
か、単に私がサボっていたからなのかはっきり憶えていない。ただ、これらの
事実は大学に入ってから書物により徐々に事業がわかってきた。

ヤッカサライの日本人墓地以外、まだ訪ねたことがない。ブハラのカガンや
タシケント近郊のチュルチュクにもあり、今後は足を伸ばしてみたいと思って
いる。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第40号 2009年11月14日
発行責任者:飯尾彰敏
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