Friday, 24 June 2011

「世界の街角からMM」第108号 日本で知られているアルメニア人 2011年6月24日

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メールマガジン「世界の街角からMM」         第108号 2011年6月24日
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日本からエレバン・レポート28です。今回は日本で知られているアルメニア人他
です。
▼目次
◆ベルリンの補足:森鴎外記念館(ベルリン)
■米国生まれの小説家-ウイリアム・サローヤン
■剣の舞-アラム・ハチャトリアン
■ラッフルズホテル創立者、サーキース兄弟
■■後記
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◆ベルリンの補足:森鴎外記念館(ベルリン)
鴎外が1884年から4年間、ドイツで医学の勉強をしていた時に約2カ月滞在
した建物で、フンボルト大日本語学科の付属施設になっている。日本には東京と
生まれ故郷の下記2箇所に記念館がある。東京の記念館は生誕150周年に因んで
改装中で現在閉館している。

森鴎外記念館(フンボルト大日本語学科付属)
http://www2.hu-berlin.de/japanologie/?jp=Mori-Ogai-Gedenkstaette

森鴎外記念会
http://www.ougai.com/

島根県津和野町 森鴎外記念館
http://www.town.tsuwano.lg.jp/shisetsu/ougai.html

■ウイリアム・サローヤン
彼の名を知ったのは初めてアルメニアを訪れた国際機関の日本人とエレバンで食
事をしながら話をしているときだ。彼が唯一知っているアルメニア人は彼が中学
時代の教科書で知ったウイリアム・サローヤンだと語ったからだ。

アルメニアで仕事を始めてから著名なアルメニア人を検索しているとき彼を知っ
た程度だった。

日本の英語の教科書で使われたのは、「ラッフィングサム」という話ではないだ
ろうか、その他、「ママ・アイ・ラブ・ユー」と「パパ・ユーア・クレイジー」
が英語の副読本として採用されていたようだ。

想像するに、庶民を描いたウイリアム・サローヤンの作品は米国文学の一つとし
て紹介されたのだろう。

◆ウイリアム・サローヤン(William Saroyan、1908年8月31日 - 1981年5月18
日)はアメリカの小説家・劇作家でアメリカの庶民を明るく書いた作品が多い。

トルコ東部から1905年にアメリカへ移住したアルメニア人の末子として、カリフ
ォルニア州のフレズノに生まれた。一歳半のとき父を喪い、4人の兄姉とオーク
ランドの孤児院に入り、5年後、女工の母に引き取られた。12歳のときから電報
配達や新聞売り子などで働きながら作家を志し、1930年ころから雑誌や新聞に書
くようになった。

1938年、30歳のときの作品「わが心高原に」と、翌年の「君が人生の時」がブ
ロードウェイでヒットし、1940年、後者に演劇部門のピューリッツァー賞が与え
られた、が彼は辞退した。同年出版の「我が名はアラム」は各国語に翻訳され、
日本でも真珠湾攻撃直前の1941年11月に清水俊二の訳書が六興出版から刊行され
た。

1943年、35歳のとき、シナリオを小説にした「ヒューマン・コメディ」を2月に
出版し、翌月映画が公開され、1944年、それによりアカデミー最優秀脚本賞を受
けた。これは「町の人気者」の題名で1947年に日本で公開された。

小説
* 1 斉藤数衛訳、『七万人のアッシリア人』(「斉藤数衛編「現代アメリカ作家
12人集」、荒地出版社(1968)」中の一篇)
* 2 関汀子訳:『ディア・ベイビー』、ちくま文庫(1991)
* 3 吉田ルイ子訳:『リトル・チルドレン』、ちくま文庫(1990)
* 4 清水俊二訳:わが名はアラム、晶文社 文学のおくりもの28(1980)
* 5 三浦朱門訳:『我が名はアラム』、福武文庫 海外文学シリーズ(1987)
* 6 関汀子訳:『ヒューマン・コメディ』、ちくま文庫(1993)
* 7 小島信夫訳:『人間喜劇』、晶文社 文学のおくりもの16(1997)
* 8 内藤誠訳:『ロック・ワグラム』、新潮文庫(1990)
* 9 清野暢一郎訳:『どこかで笑つてる』、ダヴィッド社(1954)
* 10 岸田今日子・内藤誠訳:『ママ・アイラブユー』、新潮文庫(1987)
* 11 古沢安二郎訳:『サローヤン短編集』、新潮文庫(1982)
* 12 伊丹十三訳:『パパ・ユーアクレイジー』、新潮文庫(1988)
* 13 大橋吉之輔訳:『人生の午後のある日』、荒地出版社(1966)
* 14 今江祥智訳:『ワンデイインニューヨーク』ちくま文庫(1999)
* 15 井上一夫訳:『高地魂をもった男』(井上一夫訳、「アメリカほら話」、
ちくま文庫(1968)中の一篇)
* 16 加藤道夫・倉橋健訳:『ウィリアム・サローヤン戯曲集』、早川書房(198
6)
* 17 千葉茂樹訳:『心は高原に』小峰書店(1996)
* 18 倉橋健訳訳:『わが心高原に おーい、救けてくれ!』、ハヤカワ演劇文庫1
3(2008)
(wikiを参考にした)

■アラム・ハチャトリアン
第74号 2010年10月3日でも紹介したアラム・ハチャトリアン、「剣の舞」は中学
の音楽の時間に紹介された曲なので知っている方も多いと思う。

最近ではフィギュアスケートの浅田真央がバンクーバー五輪フィギュアスケート
女子フリーでハチャトリアン「 仮面舞踏会 」を使っている。

その作曲者がアラム・ハチャトリアンだ。彼はアルメニア人ではあるが現在のア
ルメニア出身ではなく、グルジアのトビリシ出身でその後モスクワで活躍した。

「剣の舞」はバレエ音楽「ガヤネー」から抜粋した演奏会用組曲であり、アン
コールピース、オーケストラ入門曲、映像BGMなどとして知られる。

第74号 2010年10月3日
http://worldcity-mm.blogspot.com/2010/10/mm74-2010103.html

作風は国民楽派とされ、グルジア出身のハチャトゥリアンは、アルメニア・アゼ
ルバイジャン・グルジアなどカフカス地方の民族音楽の影響がうかがわれる、オ
リジナリティ溢れる印象的な曲の数々を作曲した。国民楽派の延長として民族的
要素を取り入れた社会主義リアリズムの代表的作曲家と見なされている。

1963年に来日、京都市交響楽団、結成直後の読売日本交響楽団と共演している。

ハチャトリアンにはモスクワ音楽院で学んでいた寺原信夫(作曲家、1998年没)
という日本人弟子がいた。現役の頃だから60-70年代だろうか、数少ない日ア関
係の一つであろう。

ハチャトリアンは、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共にソヴィエト3巨
匠の一人と称され、ソ連人民芸術家の称号を授与されている。
(1903生まれ、1978年没)

◆ソ連人民芸術家(People's Artist of the USSR)
ロシア語(男性)だとНародный артист СССРとなる。ソ連に
おける名誉称号のひとつであり、1936年から1991年の間に1007名へ授与されてい
る。

■ラッフルズホテル創立者、サーキース兄弟
日本では良く知られているシンガポールの老舗ホテル、ラッフルズホテルの創業
者はアルメニア系ペルシャ(イラン)人のサーキース兄弟であったことはあまり
知られていないのではないだろうか。

現在のペルシャ(イラン)出身のアルメニア人、サーキース兄弟が東南アジアで
ホテル業をはじめたのは19世紀後半、大英帝国の進出とともに東南アジアへ進出
しホテル事業へ投資した。ラングーン、ペナンでもホテルを経営した。

◆サーキース兄弟は4人
Martin Sarkies (1852-1912)
Tigran Sarkies (1861-1912)
Aviet Sarkies (1862-1923)
Arshak Sarkies (1868-1931)

◆ラッフルズホテル設立とサーキース兄弟の経営
1887年12月1日、10室のRaffles HotelがEastern & Oriental社(Penagベース)
により創業された。

ホテルの名はシンガポールの創立者Sir Standord Rafflesの名にちなんでいるが、
ホテルのオーナーはイラン系アルメニア人のサーキース兄弟が経営するEastern
& Oriental社であった。

1892年、長男Martinが退職、TigranがシンガポールでRaffles Hotelの経営にあ
たり、AvietはラングーンでStrand Hotelの経営した。ArshakはペナンでEastern
& Oriental社を経営した。

1931年、世界恐慌とマラヤのゴム貿易の低迷の影響で植民地経済は疲弊、Raffle
s Hotelも例外ではなく、Sarkies4兄弟の末っ子、Archak Sarkiesの死後、Raffl
es Hotelを含むE&O社のビジネスは、経営破綻に追い込まれた。

1933年Raffles Hotel Ltd.が設立され、スイス人GMが就任。

Raffles Singapore
http://www.raffles.com/

◆Sarkies兄弟が設立したホテル
1884: Eastern Hotel, George Town, Penang, Malaysia
1885: Oriental Hotel, George Town, Penang, Malaysia
1889: Eastern and Oriental merged into Eastern & Oriental Hotel
1887: Raffles Hotel, Singapore
1891: Kartika Wijaya, Batu, Java, Indonesia[1]
1901: Strand Hotel, Rangoon (Yangon), Burma (Myanmar)
1910: Hotel Majapahit (as Hotel Oranje), Surabaya, Indonesia

■■後記
アルメニアと日本の関係は非常にが付くほど希薄なのが現実だが、アルメニア人
ということになると、少しは関係が見えてくる。

ロッキード事件当時の副社長はコーチャンというアルメニア系であったし、ソ連
時代のミコヤン国防大臣、その兄弟で戦闘機ミグを開発したミコヤンもアルメニ
ア系だ。ミグの「ミ」はミコヤンの「ミ」らしい。

ラッフルズホテルの創立者がアルメニア系だということは知る日本人は多くはな
いだろう。

アルメニアは古代に栄えた国家、その後、ペルシャ、モンゴル、オスマンに支配
され、その間にペルシャや他のコーカサス地域、ロシア、トルコ、ヨーロッパ地
域へ移民している。ディアスポラ(離散)といい、在外アルメニア人が800万人、
国内が300万人が現在のアルメニアの人口とされている。

一度かかわった国なので今後もウオッチしていく予定です。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第108号 2011年6月24日
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