★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第417号 2024年7月12日★★★
皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。
第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。
(保留中)
▼目次
■夏の風物詩、スタリ・モストからの飛び込み
■ロンドンーカルカッタ間のバスルート London-Calcutta Bus Service
■■編集後記
★本文★
■ロンドンーカルカッタ間のバスルート London-Calcutta Bus Service
カルカッタは初海外出張先であり、その後何度か出張、それに強烈な印象を受け
たので少しは馴染みがある都市、SNSで視野に入った長距離バス、少し振り返っ
てみる。
ロンドン発カルカッタ行きバスが1957年から1976年まで、世界最長定期バスルー
トが運行していた。英国のツアー会社がユーラシア大陸横断バスツアーやアフリ
カ縦断バスツアーなどのツアーに同行したNHKの番組を観たことがあるが、ロン
ドン-カルカッタのこの長距離バスルートが下敷きにあったのかと。
1957年4月15日にロンドンを発ち、50日後の7月5日カルカッタに到着した。英国、
ベルギー、西ドイツ、オーストリア、ユーゴスラビア、ブルガリア、トルコ、イ
ラン、アフガニスタン、パキスタン、インドへ、ニューデリー、アグラ、アラハ
バード、バラナシを経てカルカッタへ。約16000km、所要50日、料金145ポンド、
バスは寝台棚、キッチン付きだった。このバスはロンドンのアルバートツアーズ
社によって運行され、途中、ウィーン、ザルツブルク、イスタンブール、テヘラ
ン、カブールではショッピタイムが設けられて、インドではタージマハル、ベナ
レスなど観光地滞在も組込まれていた。
このバスルートはイラン革命(1978年1月 - 1979年2月)とインド・パキスタン両
国間の緊張が影響して1976年を最後に運行が停止された。計15回往復が運行から
年1回の運行だったことがうかがえる。
このような多国間を跨ぐ超長距離移動には、地域情勢が影響することを如実に物
語っている。ウクライナ紛争やガザ情勢の変化に伴う第三国による報復的な戦闘
行為がスエズ運河ルート通行を困難にし、遠方の希望峰へ変更され、結果として
所要時間が長くなり運賃が値上がった。
このバスルート上のパキスタンの例では、1947年の英領インド帝国の分割に伴い
ヒンドゥー教国のインドとイスラム教国のパキスタンに分かれ、パキスタンはイ
ンドを挟んで西と東に地理的に分かられた国となった。西パキスタンと東パキス
タンである。
ベンガル地方の東パキスタンは政治的実権を西パキスタンに握られていて植民地
的な様相を呈していた中、1970年にサイクロンが全土を襲い50万人とも言われる
犠牲者が出た。市民は西パキスタンの中央政府に憤り、独立運動が広がりパキス
タン軍が制圧に動き、大量の難民がインドに流入したことからインドはインドは
東パキスタン独立のため介入し、1971年に3度目の対パキスタン全面戦争(第三次
印パ戦争)となった。主戦場である東パキスタンへは西パキスタンから遠距離で
ありインドの圧倒的な勝利に終わり、東パキスタンは1971年12月にバングラデシ
ュとして独立した。
国際情勢や地域情勢の把握は事業を運営する上ではリスク要因であり、安定した
運営のためには現状把握が欠かせないのは当然ですが。
50日というのはバスを利用したツアー、定期バスというカテゴリーはるかに超え
ている。現在でもインターシティバスを乗り継げば、このルートでロンドンから
カルカッタまで行ける。ヨーロッパ、トルコ、イランは多種多様なバス交通ルー
トが運行されている。ただ今はアフガニスタンが通過困難かも知れないが。
元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2024/06/london-calcutta-bus.ht
ml
■夏の風物詩、スタリ・モストからの飛び込み
ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルの夏の風物詩、スタリ・モスト(古い石
橋)からの飛び込み、水面まで24mの高さである。実際に飛び込みを見たことはな
いが、季節外れだったのだが、2004年10月に再建間もないスタリ・モストを渡り、
橋の下の川面まで降り流れに触れたことがある。
モスタルは、ローマ時代は属州ダルマチアに含まれていた。初期キリスト教のバ
シリカ(basilica、古代ローマ時代に裁判所や商業取引所とされた長方形の建物
で後にキリスト教がローマ帝国内に広まるにつれて、この建築様式が教会堂に利
用されたもの)が見つかっている。ローマ帝国が滅亡するとスラブ人が侵入した。
中世初期には自治権を得ていたが、その後、14-15世紀にボスニア王国の一部と
なり、モスタルは1448年にヘルツェグの称号を得ている。
モスタルは1468年頃にオスマン帝国支配下に入り、カディルクと呼ばれる法・行
政管区の中心として整備され都市化が進展した。以来、モスタルは鉱物資源が豊
富な中央ボスニアからアドリア海への交易ルートの中継地として発展し、ネレト
ヴァ川右岸の都市化が進展した。
16世紀、モスタルはネレトヴァ川を渡る重要な交通路であることからネレトヴァ
サンジャクの首府となり、ヘルツェゴビナ地域の行政の中心都市となった。ネレ
トヴァ川に木橋が架かっていたが、オスマン帝国皇帝スレイマン1世の指示によ
り 1566年に木橋から現在の石橋、スタリ・モスト(古い橋)に掛け替えられた。
石橋は中心部が湾曲した橋で、全幅 4.49 m、全長 30 m 、川面からの高さは 24
m である。
冷戦の終焉とともにユーゴスラビアは急速に内政が不安定になり紛争状態に突入
した。1991年11月18日、クロアチア民主同盟 (HDZ) のボスニア・ヘルツェゴビ
ナの姉妹政党であるHDZ BiHは、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の存
在を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。その結果、モス
タルは東西に分断され、西側はクロアチア勢力が、東側はボスニア・ヘルツェゴ
ビナ共和国の軍が集まりそれぞれ支配した。
ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立宣言を行うとユーゴスラ
ビア人民軍 (JNA) が徐々に支配を広げ、1992年4月3日に最初の爆撃を行い1993
年にかけての18か月間、モスタルを包囲した。クロアチア防衛評議会 (HVO) は
抵抗しJNAは報復としてカトリック教会やモスクを砲撃した。HVOは応戦しセルビ
ア教会や修道院を破壊した。両勢力の対峙によりスタリ・モストは、1993年11月
9日午前3時にクロアチア系のカトリック民兵によって破壊された。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争はデイトン合意により終結、その後復興が急速
に行われ、スタリ・モストの再建が1999年に開始され2004年6月23日に復興工事
が完了した。私が渡ったのは翌年の10月だった、真新しい石橋で目地のコンク
リートが年月を感じさせない白っぽい色だった。
動画は2023年9月8日。
https://www.facebook.com/share/r/LbYyTCEBmYJvaojH/?mibextid=UalRPS
元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2024/06/blog-post_18.html
★本文ここまで★
▼前号目次
■ワルシャワの夏至祭(聖ヨハネ祭)
■黒海沿岸のソゾポル
■■編集後記
■■後記
7月は文月(ふみづき)です。
陰暦7月の異称。単に「ふづき」ともいい、七夕(たなばた)月、女郎花(おみなえ
し)月などの称や、親月(おやづき)、蘭月(らんげつ)、涼月(りょうげつ)などの
漢名もある。季は三秋の初めの月で、7日には七夕、月なかばには祖先の霊を祀
(まつ)る盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事がある。
語源については、平安末の藤原清輔(きよすけ)の『奥義抄』に「此(こ)の月7日、
七夕にかすとて、文どもをひらく故に、文ひろげ月といふを略せり」とあるのを
はじめとして、稲の穂のふふみつき(含月)とする『類聚(るいじゅう)名物考』、
この月は諸人が親の墓に参詣(さんけい)するからふづき(親月)というとする
『和爾雅(わじが)』などの諸説がある。
日本大百科全書(ニッポニカ) 「文月」の意味・わかりやすい解説
文月ふみづき、より。
中断中:
第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。
が、こちらも一時中断、プノンペンの後に再開する予定です。
注)このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情報や印象を記
録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始たもので創刊
はタシケント到着後の2009年月14日でした。
また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
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