2021年6月30日水曜日

【世界街角通信MM】第331号 東京にて(野口米次郎と荻須高徳)-2021-06-30

★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第331 2021630★★★
皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
コロナ感染拡大状況下、東京にて気になったことを掲載していこうと思います。
 
▼目次
■荻須高がみた白金・目黒の風景
■野口米次郎と津島市の生家
■■編集後記
 
★本文★
 
■荻須高がみた白金・目黒の風景
 
荻須高徳、昭和の西洋画家で、東京美術学校卒業後の1927年、昭和2年に渡仏、
パリを拠点に、終生パリで亡くなる1986年まで街の風景中心に描き続けた。レジ
オンドヌール勲章、文化功労章、文化勲章を叙勲している。その荻須が渡仏前や
第二次世界大戦中に叔父荻須治一の家があった白金や下目黒に約8年間住んでい
た。荻須が見た芝白金三光町や大塚山界隈の下目黒はどんなだったのだろうか。
 荻須高徳(明治34年、1901年愛知県稲沢市生まれ)が大正10年(1921年)に旧
制愛知三中を終え叔父の支援の下上京し、東京美術学校を受験したものの通らず、
藤島武二先生の川端画学校(小石川下富坂町)へ通いながら翌年の受験準備をし
ているころの回想、
 
「田舎の中学からぽっと出てきたのが美校美校を通らなかったのは当たり前だと
思いました。」
 
叔父である荻須治一(フランス料理「三緑亭(芝増上寺裏)」の支配人)の家が
芝白金三光町にありこの辺りの情景も記している。(仏料理の老舗The Crescent
202010月末日で閉店したが、ここは増上寺の表)余談だが、大宰相・原敬の
なかで「政友会の会合は、日本料理は築地の花谷、洋食は芝の三緑亭をよく使っ
た。この二つの料理屋の名前は日記にもよく出てくる。花谷は、原が農商務大臣
の秘書官だった頃、陸奥農相に連れられて初めて行ったのが縁で、その後も何か
と世話に…」との記述がある。
 
 
「目にとまる変化といえば、点在するお寺と神社の森しかない平野地帯に育った
ぼくにとっては、東京で初めて住んだ芝白金三光町の起伏のある風物、聖心女学
院の教会の塔、ヱビスビールの煙突の並び、大谷石の壁、坂道と切通し、まるで
異国へ来たかのような印象で、ことごとく画心をそそられました。」、荻須高徳
『私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想』東京新聞出版局、1980
 
白金三光町のあと、荻須の叔父は現在の目黒区三丁目、大塚山(古墳跡がある)
付近へ引っ越した。この時、《目黒、大塚山からサッポロビール工場を望む》
1925-26年)、《目黒、大塚山の風景》を描いている。この頃、まだ目黒競馬
場があったころで1933年に府中へ移転している。
 
昭和5年の目黒の地図、下目黒の目黒競馬場の北側に大塚という字名があるがこ
こが大塚山、ここから地図の北の端にある大日本麦酒会社の文字が見える、を観
た景色であろう、実際、目黒川の谷越えの風景であり、家屋は違えど地形は変わ
っていない。
 
https://www.meguro-library.jp/data/oldmap/map9a/
 
第二次世界大戦の影響でパリから帰国、19408月から194810月まで大塚山の
叔父の家で暮らしていた。朝日新聞社文化企画部,目黒区美術館『生誕100年記念
荻須高徳展』朝日新聞社・NHK2001
 
1936?1942年の下目黒の航空写真、目黒競馬場跡地の痕跡がよくわかる。大塚
山は元競馬場の目黒通りを挟んで反対側辺り。
 
 
荻須高徳は現在の稲沢市、旧中島郡千代田村井堀の生まれ育ちである。井堀と同
じ三宅川の自然堤防上の隣村である矢合には尾張国分寺が置かれた歴史のある土
地柄である。
旧制愛知三中に東京美術学校で黒田清輝教室を卒業して赴任してきた大橋貞一教
師との出会いが画家を志すきっかけとなる。
 
ぼくは幸か不幸か、二男二女の二男坊で「この家のものは全部兄さまのもの、お
まえは外へ出て行ってひとりだちしなければならん」といわれて教育されたもの
です。荻須高徳『私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想』東京新聞出版局、1980

 
と荻須は地主であり村長を務める父親のこと綴っている。
 
https://eastriver229.blogspot.com/2021/06/blog-post.html
 
■野口米次郎と津島市の生家
 
野口米次郎(ヨネ・ノグチ)は、イサム・ノグチの父、愛知県津島市(海東郡津
島町中島)出身の詩人・英米文学者であり、慶應義塾大学英文学教授として明治
38年より昭和17年まで教鞭をとった。津島市天王川公園の中之島に「ヨネ・ノグ
チ像」があり台座に英詩「Lines(天地創造)」が刻まれ書籍を携えて椅子に腰
かけたヨネ像がある。子供の頃、よく行ったが記憶がない、なぜだろう。
 
野口米次郎は、愛知尋常中学校へ進学し、明治23年、15歳の時に家出をし、明治
24年に慶應義塾大学へ入学、英米文学夢中になり渡米を志す。明治26年に退学の
挨拶を福澤先生に伝えに行くと「結局人生は一六勝負だ(一六はサイコロの
目)」と激励された。
 
明治26年、17歳で渡米、詩人ウォーキン・ミラーと出会い明治29年に詩集を発表、
その際、不十分な英語力を補い添削、編集を行っていたレオニー・ギルモアと恋
愛関係になり、その息子がイサム・野口である。
 
野口米次郎の生家が津島市本町4-22に残っている、子孫が所有しているが既に二
十年来無住でかなり傷みが激しい。この先、どうなるか不安である、と三田評論
が指摘している。グーグルマップで確認したところ、野口米次郎と略歴が書かれ
た銘板が門横の板塀に掲げられてる。野口家なのだろうか。
 
津島市は江戸時代には七里の渡し(熱田(宮)‐桑名)の代替ルートであった三
里の渡し-佐屋の渡し(佐屋湊-桑名)の一里ほど上流にあった津島湊であり、野
口米次郎の銅像が建つ天王川公園が津島湊であった。津島湊か天王川を下り、佐
屋湊から佐屋川を下り木曽川から鰻江川を通って桑名宿までの河川水運であった。
 
グーグルマップで生家の住所を検索すると現存する住宅が写真とともに表示され
る。門左の板塀に野口米次郎の名前と略歴が示された銘板が貼られている。野口
家なのか津島市なのか定かではない。津島市はこういう歴史的な遺産をもっと大
切にすべきであるが、天王通りの惨状からは行政のマネージメントが問われても
致し方ない。近隣の稲沢市では同市井堀出身の荻須高徳画伯を記念した美術館を
建設し功績を讃えていこととは対照的である。
 
野口米次郎、詩人・英米文学者の生家
496-0805 愛知県津島市本町4丁目22
 
78回 三田評論 20134月号 ヨネとイサム・ノグチ 二重国籍者の親子
https://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1304_1.html
 
★本文ここまで★
 
▼前号目次
■スラバヤの熱い記憶-1996-97
■ヨネとイサム・ノグチ 二重国籍者の親子
■ザンビアの初代大統領であったケネス・カウンダ、97歳で逝去
■中国のワクチン外交の実力
■■編集後記
 
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■■後記
 
出身地と関係のある著名人を取り上げてみた。
 
スマホ表示にするとタイトルの横線が繰り返し折り返す、もっとすっきりしたデ
ザインにしないと。72文字で折り返し改行だが、自動にならないものか。
 
このメールマガジンをはじめたのは備忘録的にという主旨、その時々の情報や印
象を記録しておこうと20092月初頭からのウズベキスタン出張を機に始めて創
刊は214日でした。
 
また、https://note.com/klubnikaにもトピックごとに掲載していく予定です
 
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