★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第335号 2021年8月5日★★★
皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
コロナ感染拡大状況下、東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。
▼目次
■新型コロナワクチン接種(職域接種、モデルナ社製)メモ
■シラクサのサンタ・ルチアとヴェネツィア・サンタルチア修正版
■■編集後記
★本文★
■新型コロナワクチン接種(職域接種、モデルナ社製)メモ
2回目接種後の副反応がやや重かったのでメモ。
区から接種券が届いたのは6月26日、64歳以下で基礎疾患ありと申告したので通
常よりはやや早い発送だったと思う。その時点で既に職域接種の予約が6月16日
受付開始、6月21日より接種開始との連絡があり、当日の夜に予約した。その時
点で2週間先まで埋まっていた。この職域接種、接種券がなくとも予約を受け付
ける柔軟な体制であった。
1回目接種日7月6日
7月6日に新型コロナワクチンを接種した。運良く、である。ワクチンはモデルナ
社製、武田薬品のシールが貼ってあった、これは輸入元ということらしい。2回
目は4週間後の8月3日に予約を入れた。ワクチン接種後、微熱が出た。昨晩寝る
前、37度1分から37度4分、今朝には平熱に戻った、やや倦怠感がある。接種した
腕がやや痛む、注射自体はほとんど痛みはない、筋中だから仕方がない。80年代
後半にA型肝炎生ワクチンを半年毎に接種していた、その時の筋中は臀部だった、
このワクチンは量も今回のより多かったと思う、それに、けっこう痛かったな。
2回目接種8月3日
本日8/3、2回目のワクチン接種(モデルナ)でした。1回目同様、18時ごろになっ
て微熱、37.1度、接種部の腕はやや痛みを感じる程度、怠さはない。2回目は翌
日に38度超の熱が出たと知人の情報。夜中2時に悪寒がし38.1度へ、4時に解熱剤
服用(500mg)、8時37.8度、10時37.2度、12時に平熱36.1度に。一旦、平熱に戻
ったが13時過ぎに37.1度の微熱、再度、解熱鎮痛剤を服用(250mg)、その後再
度服用(250mg)、18時に微熱37.1度、解熱剤服用(250mg)、寝る前に再度(25
0mg)。翌朝8/5には平熱に、朝36.0度だった。
解熱鎮痛剤、普段は服用することはないが、お世話になった。主成分がアセトア
ミノフェン(米国一般名)、別名パラセタモール(国際的一般名)のパナドール、
タイレノール、日本ではカモナールである。パナドール(アンマンで購入)とタ
イレノール(イスタンブールで購入)を服用した。日本ではカモナール(処方箋
薬)と同じ成分。
https://eastriver229.blogspot.com/2019/04/blog-post_35.html
イスタンブールで購入したTYLOL、パラせたノール500mg、カフェイン30mgと表記、
更に、パッケージには点字が刻印されている。
■シラクーサのサンタ・ルチアとヴェネツィア・サンタルチア修正版
前回の文章が誤字脱字多く失礼しました。内容をもう少し掘り下げて書き足した
ものです。
サンタ・ルチア、イタリアの聖人の中でもよく知られている。私の視点はナポリ
民謡ではなく、ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅、駅名にもなっていること。そ
のヴェネツィア・サンタ・ルチアとルチアが殉教し埋葬されたシラクーサのサン
タ・ルチアからヴェネツィアまでの道程について少し掘り下げてみた。
シラクーサのサンタルチアのシラクーサは、シチリア島南東部に位置するシラク
サ県の県庁所在地がシラクーサSiracusa市である。
シラクーサにサンタ・ルチアを守護聖人とする信仰があり、聖ルチアの日は12月
13日、もっとも夜の長い日(冬至)、に祝祭が行われる。また、聖ルチアはナポ
リの船乗りたちの守護聖人でもあり、サンタ・ルチアというナポリ民謡はよく知
られているし、同名の港もある。
Santa Luciaのルチアはラテン語の光から派生した名前である。聖ルチア伝説が
伝播したのは中世のこと、ディオクレティアヌス帝施政下のシラクーサでルチア
は西暦304年12月13日に殉教した。彼女の犠牲はローマに広まり紀元6世紀にはル
チア信仰の守護者とし、教会全体で讃えるようになった。
その伝説は、ローマ人であったルチアの父の死後、母エウティシアは4年あまり
も腹下しに苦しんだ。ルチアは聖女シチリアのアガタの奇跡を聞きつけ、ミサに
参加し母エウティシアの病が癒されるよう、母子は聖アガタの墓前で一晩中祈り
続けた。いつしか母子は眠ってしまうとルチアの枕元に聖アガタが姿を見せ、
「私がそうしたように、あなたはすぐシラクサの栄光となるのです」とのお告げ
があった。そして母エウティシアはたちまち全快した。
シラクーサに戻ると母エウティシアはルチアを政略結婚させようとしたが、ルチ
アは自身の処女を守るために、全財産を売り貧しい人のために施したいと拒んだ。
ルチアは自分にはより高貴な婚約者(キリスト)がいると逆に母エウティシアを
説き伏せた。
しかし、思いのままにならない婚約者はルチアに怒り、彼女を神への犠牲として
火炙りにすべきだと密告し、捕まり拷問を受けることとなる。ルチアを引き立て
に来た兵士たちは、彼女を動かすことができなかった。それはルチアが聖霊に満
たされ、山のように強固な存在となっていたからである。牛の一群にルチアを繋
いでも動かなかった。ルチアの喉元に剣を突き立てても、ルチアは自らを迫害す
る者たちに予言していたのである。
最後の拷問としてルチアは両目をえぐり出されたが奇跡が起き、ルチアは目がな
くとも見ることができた。聖ルチアの絵画や像ではしばしば黄金の皿の上に自分
の眼球を載せた姿で描かれることに表れている。
結局どんな拷問でもルチアを動かすことはできず、その場で喉を刺されて殉教し
た。そのことから喉の病の治癒を叶う聖人とされる。若干、説がずれるが、彼女
のトレードマークであるトレイの上の二つの目は、自ら目を取り出したのちに天
使によりまた瞼の中へ戻されたことに由来する。そのため、失った光もまた取り
戻すことができる 希望のシンボルとなっている。
ルチアの遺体は西暦304年から1039年までシラクーサのサンタ・ルチア・セポル
クロ教会に埋葬されていたが、イスラム教支配地になったことから1039年にコン
スタンティノープルへ移された。
1202年、ローマ教皇インノケンティウス3世によって呼びかけられシャンパーニ
ュ伯をはじめとするフランスの諸侯を中心として第4次十字軍が1202-1204年に遠
征した。その輸送をジェノバやピサに呼びかけたが最終的にはヴェネツィへ依頼
された。この十字軍の当初の目的はイスラム教徒の本拠地であるサラーフッデ
ィーンが興したアイユーブ朝の都カイロを攻撃することであった。
ヴェネツィアに集結した十字軍への参加者は予定した3万人の1/3しか集まらず、
ヴェネツィアへの船賃が不足し出向できなくなった。そこでハンガリー王保護下
にあったカトリックのザラ(現クロアチアのザダル)を攻略し船賃の補填にした。
この展開はやや複雑かつ長くなるが史実なので説明がないとわかり難いので続け
る。
ところがここで東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスが帝位獲得の助力を十字軍
へ要請してきた。アレクシオス皇子の父は皇帝イサキオス2世だったが、弟アレ
クシオス3世により支配権を奪われており、正当な帝位を回復することを画策し
ていた。そこで第4次十字軍への見返りとして20万マルクの支払い、東ローマ帝
国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示した。モンフェラート侯とヴェネツ
ィアはこれに賛成し、十字軍士の中には躊躇したり別行動をとったが大方の者が
同意した。
1203年、第4次十字軍がコンスタンティノープルが到着し、皇帝アレクシオス3世
に退位を要求し固辞され海から陸から攻撃が開始され、途中、皇帝アレクシオス
3世は逃亡した。城内ではイサキオス2世を復位させて城門を開いた。そして、父
イサキオス2世とともに共同皇帝としアレクシオス4世が即位した。
しかし、東ローマ帝国の国庫にはそれだけの資金がなく、東西教会の合同にも正
教会側の激しい抵抗があり、即位したばかりのアレクシオス4世には、新たな徴
税能力なく、結果として十字軍との約束を果たせなかった。
1204年2月に先帝アレクシオス3世の婿であるムルヅフォロスが共同皇帝であるイ
サキオス2世とアレクシオス4世を共に殺してアレクシオス5世を称したことによ
り、十字軍はと東ローマは決裂した。
1204年4月、十字軍は再びコンスタンティノープル攻撃を開始した城内のヴェネ
ツィア人が東ローマ側の抵抗にまわり、十字軍側が城壁への侵入に成功たことか
らアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となったラスカリスも抵抗
を断念し逃亡した。東ローマ側は抵抗をやめたが、都市に侵入した十字軍はコン
スタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。アギア・ソフィア大聖堂に
立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、
一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦されだ。
この略奪の過程でサンタ・ルチアの遺体は1204年にヴェネツィアのサンジョルジ
ョマジョーレ教会へ移され、1280年に遺体と遺品はヴェネツィアのSant Maria A
nnunziata教会、後のサンタ・ルチア教会へ移された。
Santa Lucia alla Badia Church
https://www.secretsiracusa.it/en/where-to-go/santa-lucia-at-the-badia-of
-syracuse/
1513年、ヴェネツィア共和国はフランス王のルイ12世にサンタ・ルチアの頭蓋骨
を贈り、フランスのブールジュ大聖堂 Cathedral of Bourgesへ埋葬された。
1860年、鉄道駅建設のために教会は取り壊され、サンタ・ルチアの遺体と遺品は
近くのサン・ジェレミア教会へ移され、現在に至る。
Santa Lucia (St Lucy)
https://www.college-optometrists.org/the-college/museum/online-exhibitio
ns/virtual-art-gallery/santa-lucia-st-lucy-.html
このような経緯を辿ってサンタ・ルチアの遺体はシラクーサからコンスタンティ
ノープルへ移されその後ヴェネツィアへ、頭蓋骨はフランスブールジュ大聖堂へ、
残りの遺体と遺品の今もヴェネツィアのサン・ジェレミア教会に眠っている。ヴ
ェネツィアのサンタ・ルチア教会跡地に建てられた鉄道駅は、ヴェネツィア・サ
ンタ・ルチア駅と称する。
サン・ジェレミア教会
Campo San Geremia, 334, 30121 Venezia VE, イタリア
(wiki、リンクのサイトをベースに編集)
★本文ここまで★
▼前号目次
■シラクサの聖ルチアとヴェネツィア・サンタルチア
■一般道で東京から名古屋まで-R246-R1-R23
■ガソリン価格上昇中
■■編集後記
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★路面電車の走る街!Cities with Tramway
https://www.facebook.com/groups/5014839161891724
■■後記
ワクチン接種2回目、予想以上の副反応で解熱までに1日半程度の時間を要したの
でした。
サンタ・ルチア、目に奇跡が起こりますように、祈りに行きたいですね。
このメールマガジンをはじめたのは備忘録的にという主旨、その時々の情報や印
象を記録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始めて創
刊は2月14日でした。
また、https://note.com/klubnikaにもトピックごとに掲載していく予定です。
★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第335号 2022年8月5日
発行責任者:飯尾彰敏
Copyright(c) Akitoshi Iio All Right Reserved.
twitter:https://twitter.com/iioakitoshi
ご意見・ご感想:http://form.mag2.com/slicleapru ★★★
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■シラクサのサンタ・ルチアとヴェネツィア・サンタルチア修正版
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受付開始、6月21日より接種開始との連絡があり、当日の夜に予約した。その時
点で2週間先まで埋まっていた。この職域接種、接種券がなくとも予約を受け付
ける柔軟な体制であった。
社製、武田薬品のシールが貼ってあった、これは輸入元ということらしい。2回
目は4週間後の8月3日に予約を入れた。ワクチン接種後、微熱が出た。昨晩寝る
前、37度1分から37度4分、今朝には平熱に戻った、やや倦怠感がある。接種した
腕がやや痛む、注射自体はほとんど痛みはない、筋中だから仕方がない。80年代
後半にA型肝炎生ワクチンを半年毎に接種していた、その時の筋中は臀部だった、
このワクチンは量も今回のより多かったと思う、それに、けっこう痛かったな。
て微熱、37.1度、接種部の腕はやや痛みを感じる程度、怠さはない。2回目は翌
日に38度超の熱が出たと知人の情報。夜中2時に悪寒がし38.1度へ、4時に解熱剤
服用(500mg)、8時37.8度、10時37.2度、12時に平熱36.1度に。一旦、平熱に戻
ったが13時過ぎに37.1度の微熱、再度、解熱鎮痛剤を服用(250mg)、その後再
度服用(250mg)、18時に微熱37.1度、解熱剤服用(250mg)、寝る前に再度(25
ミノフェン(米国一般名)、別名パラセタモール(国際的一般名)のパナドール、
タイレノール、日本ではカモナールである。パナドール(アンマンで購入)とタ
イレノール(イスタンブールで購入)を服用した。日本ではカモナール(処方箋
薬)と同じ成分。
更に、パッケージには点字が刻印されている。
ものです。
民謡ではなく、ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅、駅名にもなっていること。そ
のヴェネツィア・サンタ・ルチアとルチアが殉教し埋葬されたシラクーサのサン
タ・ルチアからヴェネツィアまでの道程について少し掘り下げてみた。
サ県の県庁所在地がシラクーサSiracusa市である。
13日、もっとも夜の長い日(冬至)、に祝祭が行われる。また、聖ルチアはナポ
リの船乗りたちの守護聖人でもあり、サンタ・ルチアというナポリ民謡はよく知
られているし、同名の港もある。
伝播したのは中世のこと、ディオクレティアヌス帝施政下のシラクーサでルチア
は西暦304年12月13日に殉教した。彼女の犠牲はローマに広まり紀元6世紀にはル
チア信仰の守護者とし、教会全体で讃えるようになった。
も腹下しに苦しんだ。ルチアは聖女シチリアのアガタの奇跡を聞きつけ、ミサに
参加し母エウティシアの病が癒されるよう、母子は聖アガタの墓前で一晩中祈り
続けた。いつしか母子は眠ってしまうとルチアの枕元に聖アガタが姿を見せ、
「私がそうしたように、あなたはすぐシラクサの栄光となるのです」とのお告げ
があった。そして母エウティシアはたちまち全快した。
アは自身の処女を守るために、全財産を売り貧しい人のために施したいと拒んだ。
ルチアは自分にはより高貴な婚約者(キリスト)がいると逆に母エウティシアを
説き伏せた。
火炙りにすべきだと密告し、捕まり拷問を受けることとなる。ルチアを引き立て
に来た兵士たちは、彼女を動かすことができなかった。それはルチアが聖霊に満
たされ、山のように強固な存在となっていたからである。牛の一群にルチアを繋
いでも動かなかった。ルチアの喉元に剣を突き立てても、ルチアは自らを迫害す
る者たちに予言していたのである。
くとも見ることができた。聖ルチアの絵画や像ではしばしば黄金の皿の上に自分
の眼球を載せた姿で描かれることに表れている。
た。そのことから喉の病の治癒を叶う聖人とされる。若干、説がずれるが、彼女
のトレードマークであるトレイの上の二つの目は、自ら目を取り出したのちに天
使によりまた瞼の中へ戻されたことに由来する。そのため、失った光もまた取り
戻すことができる 希望のシンボルとなっている。
クロ教会に埋葬されていたが、イスラム教支配地になったことから1039年にコン
スタンティノープルへ移された。
ュ伯をはじめとするフランスの諸侯を中心として第4次十字軍が1202-1204年に遠
征した。その輸送をジェノバやピサに呼びかけたが最終的にはヴェネツィへ依頼
された。この十字軍の当初の目的はイスラム教徒の本拠地であるサラーフッデ
ィーンが興したアイユーブ朝の都カイロを攻撃することであった。
ヴェネツィアへの船賃が不足し出向できなくなった。そこでハンガリー王保護下
にあったカトリックのザラ(現クロアチアのザダル)を攻略し船賃の補填にした。
る。
へ要請してきた。アレクシオス皇子の父は皇帝イサキオス2世だったが、弟アレ
クシオス3世により支配権を奪われており、正当な帝位を回復することを画策し
ていた。そこで第4次十字軍への見返りとして20万マルクの支払い、東ローマ帝
国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示した。モンフェラート侯とヴェネツ
ィアはこれに賛成し、十字軍士の中には躊躇したり別行動をとったが大方の者が
同意した。
に退位を要求し固辞され海から陸から攻撃が開始され、途中、皇帝アレクシオス
3世は逃亡した。城内ではイサキオス2世を復位させて城門を開いた。そして、父
イサキオス2世とともに共同皇帝としアレクシオス4世が即位した。
教会側の激しい抵抗があり、即位したばかりのアレクシオス4世には、新たな徴
税能力なく、結果として十字軍との約束を果たせなかった。
サキオス2世とアレクシオス4世を共に殺してアレクシオス5世を称したことによ
り、十字軍はと東ローマは決裂した。
ツィア人が東ローマ側の抵抗にまわり、十字軍側が城壁への侵入に成功たことか
らアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となったラスカリスも抵抗
を断念し逃亡した。東ローマ側は抵抗をやめたが、都市に侵入した十字軍はコン
スタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。アギア・ソフィア大聖堂に
立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、
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近くのサン・ジェレミア教会へ移され、現在に至る。
https://www.college-optometrists.org/the-college/museum/online-exhibitio
ns/virtual-art-gallery/santa-lucia-st-lucy-.html
ノープルへ移されその後ヴェネツィアへ、頭蓋骨はフランスブールジュ大聖堂へ、
残りの遺体と遺品の今もヴェネツィアのサン・ジェレミア教会に眠っている。ヴ
ェネツィアのサンタ・ルチア教会跡地に建てられた鉄道駅は、ヴェネツィア・サ
ンタ・ルチア駅と称する。
Campo San Geremia, 334, 30121 Venezia VE, イタリア
■シラクサの聖ルチアとヴェネツィア・サンタルチア
■一般道で東京から名古屋まで-R246-R1-R23
■■編集後記
★CA+C 中央アジア・コーカサス地域研究会(グループ)
http://www.facebook.com/groups/298398100231283/
https://www.facebook.com/groups/436215346470056/
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https://www.facebook.com/groups/976672106196143
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象を記録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始めて創
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発行責任者:飯尾彰敏
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