2023年8月12日土曜日

【世界街角通信MM】第395号 ナホトカ航路シベリア鉄道-2023-08-12

 ★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第395号 2023年8月12日★★★


皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

▼目次
■1985年7月5日、バイカル湖畔の観光村Listvyankaその2
■1985年7月5日-8日、イルクーツクからモスクワへ、その

■■編集後記

★本文★

■1985年7月5日、バイカル湖畔の観光村Listvyankaその2

1985年7月5日(土)、その2

イルクーツクのインツーリストホテルからバイカル湖畔の観光村Listvyankaへバ
スで向かった。約70kmの距離、小一時間のバスの旅だった。横浜大桟橋から一緒
だった旅行者のなかでイルクーツク下車した全員(目的はバイカル湖観光のみ)
が参加していた。

長袖か上着が必要な気温だった。観光村Listvyankaの近くでバスを下り、夏の草
花、村の木造家屋、装飾した木窓、道端で遊ぶ子供たち、ハイライトは木造の聖
ニコライ教会、蝋燭が灯され礼拝が行われているようだった。ここだけ特別なの
だという説明だったような。そのあと、湖畔からやや小高い場所にあるバイカル
ホテルの食堂でバイカル湖産の白身魚オームリのヨーグルトソースかけを味わっ
た。

バイカルとはタタール語で豊かな湖という意味、イルクーツクには、江戸時代、
漂流民の大黒屋光太夫一行がしばらく滞在している。第一次世界戦の連合国側
として日本軍は1918-22年にシベリアへ革命軍に捕らわれたチェコスロバキア軍
の救出を目的に共同出兵を行ない、イルクーツクにも多くの兵力が駐留した。

バイカル湖は世界で最も深い湖1620m、そして大小336の河川が流入し、流れ出る
河川は唯一アンガラ川だけである。エニセイ川へ合流して北極海へ注ぐ。

この近くに日本人抑留者墓地がある、そのことは数年前に知ったに過ぎない、ロ
シア企業が日本人墓地を整備したというニュースからだ。

東シベリアの日本人抑留者墓地、ロシア企業が整備
2016年10月23日
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM23H2E_T21C16A0000000/

リストヴャンカ(バイカル湖畔の村)の日本人墓地
http://hashim.travel.coocan.jp/siberia/0730/02.html
http://1985.iio.org.uk/index.html

元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2023/07/198575.html

■1985年7月5日-8日、イルクーツクからモスクワへ、その

1985年7月5日(土)から8日(火)その1、

バイカル湖観光村Listovyankaでバイカル湖産の白身魚オームリのランチの後、
来た道を戻るようにしてイルクーツクへバスで戻り、前日下車したイルクーツク
駅からこの日のロシア号に乗車した。

イルクーツクはモスクワから5191km、モスクワ・ヤロスラブリ駅0km/9446kmまで
ここから車中3泊4日、ひたすら西へ西へと5000kmを走る。地形はほとんど平地
(車窓の風景が変わらないことを意味する。)、クラスノヤルスク4104km/9446km、
ノボシビルスク3343km/9446km、チュメニ2144km/9446km、スヴェルドルフスク
(エカテリンブルク)1818km/9446km、ペルミ1437km/9446km、キーロフ957km/9446
km、ヤロスラブリ282km/9446km、モスクワ0km/9446kmとなる。

クラスノヤルスク手前でエニセイ川を、ノボシビルスクでオビ川を横断した。そ
の際、撮影禁止のアナウンスがあった。

客車は2等寝台の4人部屋、イルクーツクまで一緒だった仏人2教師は空路でモス
クワへ移動したのだろう、既にその二人の姿は見えず、もう一人の日本人は同じ
コンパートメント、停車する度にその空き2ベッドにソ連邦の乗客が乗ってきて
降りていった。ある駅で、乳児と娘のロシア人母子が乗ってきた。外国人はそれ
ほど珍しくないのか、それとも中央アジア出身と思ったのか、まったく関心も持
たれずだった。

食事は食堂車で毎食食べた。概ね同じメンバーで食べていた。メニューからスー
プかサラダとメインを選んでいたと思う。何を注文してよいのかわからずイン
ツーリスト添乗員のマリーナにアイデアを出してもらっていた。選択肢は多くな
いのでも直ぐに最初のメニューが繰り返された。黒パンは常にあった。食事代は
1ルーブルプラス程度だった記憶だ。

また、停車した駅で売っていた茹でたジャガイモを摘んだりした。客車の前後に
サモワールがありティは常に飲めた。

元記事:https://eastriver229.blogspot.com/2023/07/198575-8.html

★本文ここまで★

▼前号目次
■1985年7月4日、アンガラ河畔のインツーリストホテル・イルクーツク
■1985年7月5日、バスでバイカル湖へ、その1
■■編集後記

■■後記

第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲載しています。

注)このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情報や印象を記
録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機に始たもので創刊
はタシケント到着後の2009年月14日でした。

また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
▼note klubnika report
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