2021年5月14日金曜日

【世界街角通信MM】第327号 東京にて(城址)-2021年5月14日

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メールマガジン「世界街角通信MM」第327 2021514
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皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
コロナ感染拡大状況下、東京にて気になったことを掲載していこうと思います。
 
実家のある愛知県旧海部津島地方のトピックです。
 
今号は旧尾張藩内の中でも実家付近にあった平城について、備忘録的に。
 
▼目次
■信長、秀吉、家康につかえた横井氏の赤目城
■桶狭間合戦で鷲津砦を守った飯尾定宗奥田城
■織田信定が築城し信秀、信長が生まれ勝幡城
■■編集後記
 
★本文★
 
■信長、秀吉、家康につかえた横井氏の赤目城
 
実家の近くにある檀家寺のご近所に尾張藩に仕えた横井氏の赤目城址があり、今
も子孫が住んでいる。
 
赤目城は明応2年(1493年)、地元の豪族で北条時行の末裔、横井時永が築城し
一族を率いて現在の元赤目に居住し、延宝3年(1675年)この地に移住した。
 
2代目城主、横井時勝は足利義輝の家臣に加わり、3代目城主の横井時延は織田信
長の家臣に加わった。その後、4代目城主、横井時泰は織田信長・織田信勝・豊
臣秀吉・徳川家康につかえた。
 
横井時延の三男、横井治太夫は紀州徳川家に属し、自ら紀州横山家を起こして分
家し、横井時延の四男、五男の横井時朝、横井時久は関ヶ原の戦いにより時朝は
海西郡藤ヶ瀬村で1200石を得て藤ヶ瀬横井家を起こして分家し、時久は中島郡祖
父江村で1900石を得て祖父江横井家を起こし現在に至る。
 
江戸時代になると横井氏は代々、尾張藩主の重臣として働き、給人として特別な
待遇を受けて明治時代に至る。
 
現在では城門が一心寺に移築され付近にある赤城神社が城跡の遺跡とされている。
 
戦国時代は佐屋川の河岸段丘上の定納(じょうの)の白山神社の南側にあったと
のこと。
 
■桶狭間合戦で鷲津砦を守った飯尾定の宗奥田城
 
奥田城の初代城主は、清洲城を築いた斯波義重の従弟である満種の子・持種とい
う、築城時期については清州城が築かれた応永年間(1394~1427)頃だ
といわれており、戦国時代前となる。
 
その後、弘治年間(1555~57)頃に織田大和守敏定の孫・織田定宗が城主
となり、斯波氏の一族である尾張の土豪・飯尾氏を継いだ。そして近江守を称し、
飯尾近江守定宗となった。
 
定宗は信長に従い、桶狭間合戦では鷲津砦を守備したが今川軍の猛攻を受け戦死。
それ以後、飯尾家の家督は長男の北方城主の尚清が継ぎ、奥田城は次男の重宗が
後を継いだ。
 
後に加賀国に移ることになり、奥田城は廃城となった。なのでこの地に飯尾は残
っていないはず、だが、江戸時代を経て飯尾姓が残っているのは明治初期に姓を
付与する際に真似たのか。
 
https://www.oshiromeguri.com/inazawa/15okuda.html
 
■織田信定が築城し信秀、信長が生まれた勝幡城
 
勝幡城、ほとんど知られていないと思うが信長が生まれたとされる城である。信
長由来なのでネット上の情報も多い。勝幡は旧佐織町だが実際の場所が三宅川の
畔、旧平和町と跨いでいる。現在の住居表示では愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平
和町六輪字城之となる。
 
平城だが周囲は川を上手く使った堀が巡らされている。勝幡城は、尾張下四郡の
守護代「織田大和守家」の庶流で、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織
田信定(織田弾正忠信定)(織田信長の祖父)が永生年間(1504-21年)に尾張
権守・大中臣朝臣安長(大中臣安長)が屋敷跡に築城されたとされる。
 
この辺り、地元では「塩畑」と呼ばれていたが縁起が悪いという理由で信定また
は織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる
 
勝幡村古城絵図によると、勝幡城は東西約87m、南北約127mの城域をもつ方形の
城郭で、勝幡城は二重の堀で囲まれ、三宅川が外堀にもなっていた。
 
織田信長の父・織田信秀は、尾張守護の斯波義達や主家・織田達勝をも上回る勢
力となり、織田家、斯波義達の家臣である清洲城主・織田達勝の家臣と言う立場
でした。
 
天文元年(1532年)信定の跡を継いだ信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、
那古野城に移り、勝幡城に家臣の武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。
 
天文2年(1533年)、公卿の山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の
規模と出来栄えに驚いたと日記に記している(『言継卿記』)。このことから商
業であった津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。
 
『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・信長(母は土田御
前)はこの勝幡城で産まれたと記されている。那古野城という説もあるが、近年
研究家の間では勝幡城説が有力とのこと。
 
弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠
点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移しことか
ら、やがて勝幡城は廃城となった。
 
なお、勝幡城跡は江戸時代の1812年、水野千之右衛門によって日光川の流れがえ
られ、跡地の大半が失われている。
 
現在、「勝幡城址」と「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の石碑と「文化財史跡勝
幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。
 
愛知県公式観光ガイド
https://www.aichi-now.jp/spots/detail/309/
 
勝幡城-稲沢市観光協会
https://www.inazawa-kankou.jp/syobatajyo/
 
★本文ここまで★
 
▼前号目次
■イチゴ栽培と販売・組織化ーあまイチゴ組合
■愛知県産のお米「あいちのかおり」
■■編集後記
 
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■■後記
 
江戸時代まで残っていたのは徳川家に仕えた赤目城、奥田城を継いだ飯尾重宗江
戸になる前には加賀へ移転している。そして勝幡城も信長の時代に衰退、廃城と
なっている。よって赤目城主の横井氏が残るのみ。
 
このメールマガジンをはじめたのは備忘録的にという主旨、その時々の情報や印
象を記録しておこうと20092月初頭からのウズベキスタン出張を機に始めて創
刊は214日でした。
 
また、https://note.com/klubnikaにもトピックごとに掲載していく予定です
 
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メールマガジン「世界街角通信MM」第327 2022514
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