★☆☆メールマガジン【世界街角通信MM】第392号 2023年7月20日★★★
皆さま、こんにちは、世界街角通信MMです。
東京にて気になったことなど備忘録的に書いています。
第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想録を掲
▼目次
■1985年6月29日から7月1日、横浜港大桟橋からナホトカ
■1985年7月1日(月)、ナホトカ港で下船、ナホトカ支線の
ヤ太平洋駅へ
■■編集後記
★本文★
■1985年6月29日から7月1日、横浜港大桟橋からナホトカ
1985年6月29日(土)
ハバロフスク号は横浜港大桟橋から定刻通りの11時に出航した。
雲が垂れ込める横浜港から東京湾へ、ベイブリッジはまだない、船
ドが向き合っている4人部屋でフランス人教師2人(暁星学園)、
4人であった。ドンドンという船のエンジン音が常に聞こえ、丸い
は灰色の世界が広がっていた。
乗船したハバロフスク号の諸元は以下のとおり、西ドイツで建造さ
の客船で乗客333名、乗員97名が乗船できた。数値の体感との
1985年6月29日、ハバロフスク号は、ミハイル・カリーニン
客333名、乗員97名、総排水量トンが4772トン、8,30
最高速度17ノット、全長122.15m、全幅15.96m、1
旅客船である。
船舶諸元:
4,772GT LOA 122.15m LBP 110.01m B 15.96m Dght 5.23m
D1 MAN 8,300hp Service 17kt
Crew 97 Passengers: 333
Built in Mathias Thesen, West Germany in 1961
Flag: U.S.S.R.
One of MIKHAIL KALININ class ships
Broken up in China in 1989
どんな乗客だったかというと、乗船した時は見えなかったが食事の
集まったときに、概ねこういう人たちだったのかということがわか
観光客が主で、日本在住の米国人やフランス人が本国へ帰国便とし
リーの外交官一家の帰国便として、モスクワへ里帰りする父が日本
母子、等であった。日本人観光客はヨーロッパへの往路にこのルー
いた、基本的に若者が多かった記憶だ。
セルゲイというインツーリストの添乗員が同行していて日本語で食
ナウンスがあったのが、記憶に残っている。それと、ソ連邦の時差
めのアナウンスもあった。2泊3日の行程だったが、そんなに距離
思った。
1985年6月30日(日)
どのあたりで日を跨いだのかはっきりと覚えていないが、太平洋上
うか。2泊目の夜だと思うが津軽海峡を通過、船窓からイカ漁の漁
は覚えている。
甲板には小さなプールがあったが梅雨空で入れるような気温ではな
る程度だった。ハバロフスク号船内ではアトラクションが用意され
後だったと思う。
1985年6月30日、2泊目の夜、船内ではアトラクションが企
性はロシア民謡とダンスの会に出演した。カリンカは覚えている。
たと思う、翌日の午後にナホトカ港へ入港した。F3.5-4.5
が限界。丸顔の背の高いロシア人女性だった。キオスクではウォッ
たと思う、飲めないので品揃えを見に行っただけ、その他、琥珀や
どを売っていた。絵葉書はなく、切手が便箋に印刷してあり折り畳
ルになる郵便があったと思う。
二日目、ハバロフスク号船内での食事風景、太平洋岸を北上して津
っている頃か、左奥にモスクワへ里帰りするロシア人母と日本人父
の子と女の子が座っている、もうこの子供たちは40歳くらいだろ
ハバロフスク号船内の食事風景と乗客、特に席は決まっていなかっ
同じ席についていた。日本人観光客の他はソ連邦や東欧諸国へ帰省
った。ハンガリーの外交官家族も一緒だった。
1985年7月1日 (月)
津軽海峡から凪の日本海を航行し、アメリカ湾内へ入りナホトカ港
うに着岸して下船した。15時過ぎだったような記憶。ポロシャツ
寒い、Sierra Designのマウンテンパーカを持ってきて正解、夏のヨーロッ
けの万能上着、これを羽織れば肌寒さはしのげた。
セルゲイが湾内は軍事施設なので写真撮影をしないようにとのアナ
たが、皆、シャッターを切っていた。セルゲイのお役目はここまで
ダーニャさようならと言って別れた。
埠頭の目の前に出入国管理事務所と税関の建物があった。この建物
査、税関審査だった。なんとなくこの建物のデザインが古めかしく
てきたような感覚を覚えた。
入国審査ではパスポートとバウチャーを出し、係官はかなりしっか
トと本人を確認していた。入国スタンプは押されなかった、そうい
連邦ではと思った。
税関ではバックパックの荷物を出して詳細に検査が行われた。着替
ック、筆記用具、カメラとフィルムくらいしか携行していなかった
ンドの友人に頼まれたフジのカメラ(1984年発売なのでこのモ
カルディアDL-200デート)を持っていたのでどうするのか聞
説明した。自分用に一眼レフを持っているので売るのではと思った
い。質問の視点は外国から持ち込んだ物をソ連邦内で売らないだろ
場合は課税だろうが、という印象だった。
職員は英語で話してくれたが、それが聞き取れずに呆れられた。建
ンツーリストの添乗員と中型バス(西ウクライナのLvivで製造
ハンガリー製のイカルスと思い込んでいた。)が待っていて鉄道駅
線、極東鉄道太平洋駅)、5分程度だったが、まで下船した全員で
の中でインツーリストの添乗員はロシア人と朝鮮系のハーフと自己
ションツアーを申し込んだ人はバスに残ってくださいと説明した。
でいなかったので、太平洋駅で降りた。
http://1985.iio.org.uk/index.h
元記事:https://eastriver229.blogs
■1985年7月1日(月)、ナホトカ港で下船、ナホトカ支線の
ヤ太平洋駅へ
1985年7月1日(月)
午後3時ごろだろうか、ナホトカ港に着岸、下船し、入国審査、税
建物の外で待っていたインツーリストの添乗員と中型バス(LA
リア鉄道ナホトカ支線(極東鉄道)の太平洋駅(チーハオケアンス
船した全員で移動した。バスの中でインツーリストの添乗員はロシ
のハーフと自己紹介し、オプションツアーを申し込んだ人はバスに
いと説明した。私は申し込んでいなかったので太平洋駅で降りて、
での間、駅構内というか線路脇の見慣れない風景の中でぶらぶらと
でツアーに参加した人に聞いたところ、日本人墓地墓参と市内観光
チーハオケアンスカヤ(太平洋)駅、ホームという構造物は線路と
ペースであった。
ナホトカはかつてのシベリアの玄関口、ナホトカ航路で横浜-ナホ
ていたが現在は新潟-ヴラジオストックに変わっている。1859
が漂流中偶然波静かな入り江を発見した。このとき”ナホトカ(ロ
出し物の意味)”といったのが地名の由来。また、太平洋戦争後、
人抑留者を送還する港としても知られている、市内に日本人抑留者
シベリア横断鉄道は、ヴラジオストック(モスクワから9,297
指すが、共産主義時代ヴラジオストックへの外国人立ち入りが制限
め、ナホトカ支線、極東鉄道Тихоокеанскаяチーハオ
(太平洋)駅(256km)からヴォストーク号に乗車し、途中ウ
ら82kmに位置するウグロヴァヤ駅手前でシベリア鉄道本線に合
173km)し、ハバロフスクでロシア号に乗り換えるのがシベリ
ここからモスクワまで9,446km、現在はウラジオストックか
る。
ナホトカ・チーハオケアンスカヤ(太平洋)駅 から乗車した極東(ヴォストー
ク)号の列車はロシア号と同じ客車で、二等寝台車の4人部屋(2
一等寝台車は二等と同じつくりで1段ベッドの2人のコンパートメ
幅がソ連邦は広軌(1524mm、新幹線の標準軌は1435mm
井が高、規格がゆったりしていた、客車は確か東ドイツ製だった、
板があった、車両は16両編成だったと思う。
元記事:https://eastriver229.blogs
★本文ここまで★
▼前号目次
■1985年6月29日、ナホトカ航路で横浜大桟橋から出航
■1985年6月29日、ナホトカ航路で横浜大桟橋から出航(日
■■編集後記
■■後記
前号の第391号より、ナホトカ航路シベリア鉄道1985の回想
注)このメールマガジンは備忘録的にという主旨で、その時々の情
録しておこうと2009年2月初頭からのウズベキスタン出張を機
はタシケント到着後の2009年月14日でした。
また、以下にもトピックごとに掲載していく予定です。
▼note klubnika report
https://note.com/klubnika
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★CA+C 中央アジア・コーカサス地域研究会(グループ)
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★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第392号 2023年7月20日
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