2010年1月31日日曜日

世界の街角からMM 第45号 モスクワ・レポート4 2010年1月31日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第45号 2010年1月31日
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モスクワ・レポート4です。
11月21日から24日にかけてモスクワへプチ旅行を挙行した。新生ロシアの首都モ
スクワを垣間見たメモです。
▼目次
■郷愁のキエフ駅
■出来立てホヤホヤ、ヨーロッパ・ショッピングセンター
■モスクワのイタリアン(Evropeisky SC.内)
■シベリア鉄道終着駅ヤロスラブリ駅と芸術的な地下鉄Komsomolskaya駅
■■編集後記
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二日目後半、Arbat通りのヨルキ・パルキで遅いランチをとり、通りの端にある
Smolenskayaという地下鉄駅から一駅乗り、Kievskayaまで行った。本来ならキエ
フ駅までモスクワ川を渡って歩いてきたいところだったが、寒さと暗さで地下鉄
の利用となった。

■郷愁のキエフ駅
ソ連時代、この駅からドニエプル号という夜行列車でキエフへ旅立った。当時は
インツーリストのお抱えなので自前で行動することはほとんどなく(できなかっ
たのだが)ボルガ(ソ連製の乗用車、ハイヤーの代用だろう、タクシーの場合はL
adaなので)で市内を移動した(個人旅行といえどもインツーリストは外国人に対
してこのようなもてなしだった)。宿泊していたコスモスホテルからここキエフ
駅への移動もそうだった。コスモスホテルは北部に位置し、キエフ駅は南西部、
何れも環状3号内ではあるが、どこをどのように走ってきたのかまったく記憶にな
い。広い道路に少ない交通量、渋滞など考えられる状況にはなかった。

今回は一駅都心のSmolenskaya駅から地下鉄を利用、キエフ駅はコムソモルスカヤ
駅に匹敵するほど芸術的な駅だった。地下鉄駅からロシア鉄道のキエフ駅へ向か
う。モスクワの地下鉄駅とロシア鉄道駅との連絡は一般的によくない、というの
は駅の名称が異なったり、連絡通路がなく、外へ出て少し歩くことが多い。しか
し、ここキエフ駅は地下鉄駅の上がキエフ駅だった。

キエフ駅はシティーエアーターミナルとなっているようで、この駅でフライトの
チェックインができるようになっていた。モスクワを留守している間にここまで
サービスレベルが向上しているとは予想もできなかった。我々がシェレメツェボ
空港から利用したアエロエキスプレスがキエフ駅からVnukovo空港まで35分でサー
ビスしている。恐るべしモスクワ!

キエフ駅を訪れた目的は単なる郷愁のトレースと現在の駅の状況把握であった。1
985年当時、どうやって夜行列車に乗ったのか定かではないが二等寝台車で快適な
列車の旅であり、翌朝にはドニエプル川の鉄橋をゆっくり渡るゴトゴトと言う音
で目覚めた。

http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157623077650652/show/

■出来立てホヤホヤ、ヨーロッパ・ショッピングセンター
Kievsky Vakzalの目の前にある巨大なショッピングセンター、建設中にヨーロッ
パ最大の床面積のショッピングセンターと言われた近代的なショッピングセン
ターが一ブロック丸ごと占めている。

流行の複合ショッピングセンターで5階までがショップ、高級ブランドもテナント
にあるがそれ以外も多い、地下にスーパーマーケット、シネコン、7階にスケー
トリンク、5-6回は駐車場。フードコートやレストランもある。冬季はこの中で一
日過ごせてしまえそうだ。

小規模でもいいからもう少しバラけているとカスタマーにとっては便利なのだが
どうもロシアは巨大集積型がお好みらしい。それにモータリゼーションをも非常
に意識している。

ショップ、ショップ、ショップ、並ヨーロッパブランドから高級ヨーロッパブラ
ンド、ロシアブランドなど様々なテナントが入居している。はっきり言って西側
ブランドはヨーロッパの値札の1.5倍である。ぶらぶらしていたら見慣れた看板を
発見、HUBERで下着を購入したが、ウィーンの2倍近い値段だ。だれがこんな理不
尽な値段設定を受け入れているのか不思議なのだが、とにかく客の入りは非常に
よい。

4階にあったパソコンショップでD300とPCを接続するUSBケーブルを忘れてきたの
でここで調達した。その横にアップルストア(アップル製品を販売しているだけ
だろうか不明)があったのでiPhoneがあるか聞いてみたが、ここでは販売してい
ないこととガルブーシュカ(モスクワの秋葉原)で購入できるという。

ユニクロが2010年春にモスクワに進出するというニュースを聞いていたのでこの
ショッピングセンターなのではと勝手に想像していたが、地下鉄Kurskaya駅前の
Atriumということを後から知った。

Evropeisky SC.
Kievskaya pl. 2
tel.(+7) 495 921 34 44
Open 10:00 - 22:00, Sat, Sun 10:00 - 23:00
Metro station: Kievskaya

http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157623077650652/show/

■モスクワのイタリアン(Evropeisky SC.内)
夕飯に何料理を食べようかと内輪で話しているときに最長老から、イタリアンに
しようとのリクエスト、これには伏線がありランチ時からイタリアンという問い
かけがあったが誰もそれには答えていなかったのだ。

料理が先かレストランが先か、ほとんど地の利がないモスクワ、料理よりも適当
なレストランを探すことが先決なのだ。ショッピングセンターだからあるだろう
と、大船に乗ったつもりで探す。外から見るとなにやらイタリアンとかいうサイ
ンが見える。じゃそこにしようと即決。

2階にあるAcademiaというイタリアンレストランで夕飯を食べることにした。この
ショッピングセンターを出てどこへ行くのか、あてもなく時間だけが過ぎていく
ような気がしたので適切な選択だったと思う。

日本人がイタリアンというと=パスタとなってしまうが、メインはメインで美味
しい料理もあるのだが、ご他聞に洩れず、パスタを注文することになった。ピザ
とスパゲッティ。もっとも簡単な前菜だがイタリアンファーストフードともいえ
るだろうか、麺文化の我々にはメインにもなる便利な料理だ。

普通のピザとパスタであったが、これらもまともに出すレストランの少ない国の
首都から来た我々は何度も何度も感動したものである。値段は東京並み、東京よ
りコストパフォーマンスは低いが、まあ昨晩と比べれば格段の満足度であったこ
とは言うまでもない。私はビールの味がわからないしあまり好んで飲まないが、
旨いビールだったようだ。ロシアビールといえばバルチカしか知らないが。

http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157623077650652/show/

■シベリア鉄道終着駅ヤロスラブリ駅と芸術的な地下鉄Komsomolskaya駅
この周辺は危険地帯なので夜遅くなってからは行かないほうがよいとモスクワに
住んでいた商社マンに忠告された地区であるが、ここを訪れずモスクワを離れる
ことは己が許さないであろう、夕飯の後、ベラルーシ駅での荷物預かりを確認し
てからヤロスラブリ駅へ地下鉄で向かった。

ソ連時代からこの付近(ヤロスラブリ駅とレニングラード駅が隣接している)、
レニングラード駅の横は娼婦街といわれていた。人通りがあるし、こんな大きな
駅の構内が危険というのが解せない。まあ、その横の路地裏ならヨーロッパの大
都市の駅とて非常に危険だ、ベルリンやフランクフルトは私の経験では非常に顕
著だった。当時は麻薬中毒と売春婦はワンセットだったと思うがこれは今も同じ
ことなのだろう、それに加えてロシアではネオナチという民族主義の若者が我が
物顔でアジア系を狙うという実しやかな情報が流れている。実際、日本人も被害
にあっている。中央アジア系に間違われたのだろう、ロシアでは日本人と承知で
襲うことは考えにくい、強盗は別だが。ただ、驕ってはいけない。

前置きが長くなったが、このヤロスラブリ駅、シベリア鉄道の起終点だ。ヨーロ
ッパと同じ、行き先が駅名になっている。ヤロスラブリはシベリアではない、モ
スクワから東には行くがウラル山脈よりずーと手前の都市だ。

シベリア鉄道はこのモスクワのヤロスラブリ駅とウラジオストク駅を結んでいる
全長9297km、ロシア号はモスクワ-ウラジオストク間を7日で走破する。1
985年当時のソ連邦時代はウラジオストクが軍港のため外国人の立ち入りが禁
止され、ナホトカがシベリア鉄道の起終点になっていた。

日本からは、横浜港大桟橋からナホトカ港へ、そして、ナホトカから極東鉄道を
経由してシベリア鉄道へ合流し、ハバロフスクでロシア号に乗り換えた。実際、
ナホトカを出てしばらくするとシベリア鉄道に合流する。

1985年7月8日16時40分、ロシア号でヤロスラブリ駅、確か、2番線に到着したのだ。
そのときの記憶を頼りに行ってみた。既に21時を回っていたが人通りは多く、こ
れから列車が出発するのだろう、小雨が降る中、プラットフォームへの人の流れ
が絶えなかった。駅全体が私の記憶と異なるのはキオスクが多くなったことと、
改札らしき施設ができていたことだろうか。でも、2番線へは改札はなかったな。

駅舎の前に到着と出発の時刻表が掲示されていた、2番線ウラジオストク行き21:2
5というスケジュールが見える。
http://www.flickr.com/photos/yha229/4218297364/in/set-72157623077690342/

1985年のヤロスラブリ駅
http://1985.iio.org.uk/ussr/siberia_moscow.htm

□芸術的な地下鉄Komsomolskaya駅
ヤロスラブリ駅とレニングラード駅の地下鉄駅がKomsomolskaya駅である。マリア
テレジアンイエローとモザイクがまるで宮殿の中にいるような地下鉄駅、これは
絶品である!
http://www.flickr.com/photos/yha229/sets/72157623077690342/show/

■■編集後記
レポート5はモスクワ三日目、Novodevichy Convent、モスクワ国立大学、雀が丘、
ランチに日本料理、モスクワ秋葉原等です。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第45号 2010年1月31日
発行責任者:飯尾彰敏
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2010年1月17日日曜日

世界の街角からMM 第44号モスクワレポート3  2010年1月17日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第44号 2010年1月17日
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明けましておめでとうございます。多忙を極めているうちに年が明けてしまい、1
月も中旬を過ぎてしまいました。さて、モスクワの続きです。
11月21日から24日にかけてモスクワへプチ旅行を挙行した。新生ロシアの首都モ
スクワを垣間見たモスクワ・レポート3です。ギャラリーリンクを追加しました。
▼目次
■トレチャコフ・ギャラリーとプーシキン美術館
■聖救世主教会とモスクワ都市計画
■Gogotevsky大通りからArbat通りへ
■Arbat通りとヨルキ・パルキ(ロシアン・ファミレス)
■■編集後記
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この日の予定は、トレチャコフ、プーシキン美術館、Arbat通り、キエフ駅とその
隣のショッピングセンター、ヤロスラブリ駅でしたが、プーシキン美術館の前に
ある救世主ハリストス大聖堂に立ち寄った。小雨が降る肌寒いお天気ながら、ク
ロポトキンスカヤ駅からArbat通りを歩いた。

■トレチャコフ・ギャラリーとプーシキン美術館
最寄の地下鉄駅で下車、地図を見ながらトレチャコフギャラリーを探して辿り着
いたのだが静か過ぎる。門の前に休刊の説明、なんとトレチャコフは休館だった。
そこからまた地図を見てプーシキン美術館までモスクワ川を渡り歩くことにした。
風が強く寒かったな。でも、モスクワ川とクレムリンを背景に記念写真を取るこ
とができた。やっぱり旅は歩かないとね、でも寒かった。

Tretyakov Gallery
http://www.tretyakovgallery.ru/en/

トレチャコフ・ギャラリーからぷらぷらと歩き、プーシキン美術館にはやっとの
ことで辿り着いたが入り口がわからない。道行く人に聞いたら建物の横だという。
目的は本館ではなくEuropean Collectionセクションだ。本館へ入って入場料を払
う窓口でここではく隣だと告げられた。それでやっと暖かい場所に落ち着けてほ
っと一息したが直ぐにコートを着て隣のEuropean Collectionへ向かった。隣とい
っても敷地が大きいので数分はかかった。隣のブロックに細長い建物がありそこ
がEuropean Collection、これまた建物正面でなく横が入り口だった。観光バスが
横付けされていたのでどんなに多くに人が入場しているかと思ったら、かなり空
いていた。

このEuropean Collection、ガイドブックにあるように印象派コレクションが豊富
だった。目の前でルノワールをじっくり鑑賞した。高校生だろうか、先生が絵の
前に立ち、かなり長い時間説明していた。ここはまた一人でじっくり訪れてみた
い美術館だ。
Pushikin State Museum of the Fine Arts (European Collection)
http://www.museum.ru/gmii/defengl.htm

■救世主ハリストス大聖堂とモスクワ都市計画
(Cathderal of Christ th Caviour)
プーシキン美術館の目の前にモスクワ川沿いに建っている教会が救世主ハリスト
ス大聖堂という、ソ連時代に共産主義都市計画が優先され破壊された教会で、連
邦崩壊後、モスクワ市長のイニシアティブにより再建された。政治的な理由によ
り数奇な運命を辿っている。

1931年、ソ連共産党の党大会議場となる「ソビエト宮殿」の国際建築設計コンペ
が公示された。コルビジュエもこのコンペに参加しているが、ソ連の建築家が一
等になるのは予測済みだったことだろう。この宮殿の建設予定地が救世主ハリス
トス大聖堂なのだ。

1934年に公開された最終的な案では、頂上部には高さ80mの巨大なウラジーミル・
レーニン像が立つ姿、土台部分はまた円形へデザイン変更され、そして第二次大
戦後の1947年、モスクワ建都800年に合わせてスターリンは世界の模範的首都とし
ソビエト宮殿を含むモスクワ復興と共産主義国家の首都モスクワの建設を指示し
た。そしてモスクワの7つの丘を象徴する7つの高層ビル建設を進めたのです。

その核となるソヴィエト広場はスターリンの死とともに計画だけで終わったがそ
の敷地であった救世主ハリストス大聖堂は1931年12月5日に爆破された。

救世主ハリストス大聖堂の跡地では基礎工事が始まっていたものの戦争の影響で
資材を流用、戦後、本格的に建設工事が始まったが、1953年のヨシフ・スターリ
ン死後、ニキータ・フルシチョフやゲオルギー・マレンコフはついに「ソビエト
宮殿計画」を白紙に戻してしまった。

宙に浮いたソビエト宮殿建設用地は、基礎工事が中断したまま放置されていたが、
1958年から直径129.5mもある世界最大級の野外温水プール「モスクワ」が建設さ
れた。

ソ連崩壊後、大聖堂の再建機運が高まり、温水プールは閉鎖され、1995年1月7日
に再度モスクワ市がイニシアチブを取り、巨費を投じて宮殿基礎やプール施設を
撤去し、大聖堂再建がスタートし2000年8月19日に「救世主ハリストス大聖堂」が
竣工した。

ということで信じられないことがソヴィエト時代には行われていたのだ。共産主
義という専制政治とは何だったのか、考えさせられる一面に触れたのでした。

◆スターリン様式の建築(セブンシスターズ)
前述の通り、モスクワ宮殿建設と同時にニューヨークの摩天楼と競おうと思った
のかモスクワのランドマークとなるスターリン様式の以下の高層ビルが1930年代
にモスクワの都市計画の一環として計画され、7棟建設された。これらのデザイ
ンは旧共産主義圏において、ソ連からのプレゼントと称してコピーが存在する。
文化科学宮殿、どこでも同じ名称なのか、ワルシャワとリーガは記憶にある。

1.モスクワ大学本館
2.ロシア連邦外務省
3.ロシア連邦運輸機関建設省
4.文化人アパート
5.芸術家アパート
6.ウクライナ・ホテル
7.レニングラード・ホテル

■Gogotevsky bul.からul. Arbatへ
地図を見たところ、救世主ハリストス大聖堂からArbat通りまでは徒歩圏であり並
木道が続いている(冬なので寒々としていたが)ので歩くことにした。クロパトキ
ンスカヤ(Kropotkinskaya)駅を抜けGogotevsky bul.の終わりがArbat通りの始
点である。

クロパトキンスカヤ駅はその上が小規模なショッピングストリートになっていて
小さな店が並んでいた。その外れにビアード・パパというシュークリーム屋があ
った。どこかで聞いたような、そうだ、マニラのグリーンヒルズだ。実はこのシ
ュークリーム屋、日本では全国展開しているようだが私は日本では食べたことが
なかった。

同行者の一人がタシケントからリクエストされていたシュークリームだというこ
とになりここで買い求めることになった。救世主ハリストス大聖堂で戻ってこな
い仲間がいたのでかなり時間を費やしてしまい先を急いでいたが、ここで更に時
間を費やすことになった。旅は道連れ世は情けだ。

この店、モスクワでは2009年2月4日にオープンしたばかり、株式会社麦の穂とい
う会社が経営しているとは初耳であった。都内だと東急東横店に店があるようだ
が記憶にない。
http://www.muginoho.com/company/globalInfo.html

Arbat通りの手前のコスメチックショップでリップクリームを買った。唇がカサカ
サで割れてしまうのではと心配していたのだ。ニベアのリップクリームだった、
それから、ハンドクリームもここで調達、値段はヨーロッパと同程度だった。タ
シケントに戻ってからスーパーマーケットで同じものが販売されていたので値段
をチェックしたらこちらのが高かった。

この通り、夏季は清々しいだろうと思う。

■Arbat通りとヨルキ・パルキ(ロシアン・ファミレス)
モスクワの代表的な観光地としてどのガイドブックにも紹介されているアルバー
ト通り、ニューアルバート通りもあるが今回は道草が多かったので割愛となった、
誰かがモスクワの原宿だとか言っていたな、歩行者天国なので歩くには非常に快
適だ、以前は露天商が多かったようだが最近規制され、その姿はほんの僅かにな
ってしまった。ソヴィエト時代のプロパガンダポスターを売っていたので買いた
かったがパス。

ヨルキ・パルキで遅いランチを食べた。タシケントにもある通称ロシアンファミ
レス、ここで、本場?のボルシチとサーモングリルを食べた。値段も味もリーズ
ナブル。ウドンヤサンという和食レストランもあったが、もう一つ胃があってほ
しかったな。こちらも事前情報でリーズナブルだと聞いていたモスクワの和食だ。

アルバート通りはショッピングストリート、両側にショップがずらりと並んでい
る。低層なので圧迫感がない。お天気も悪いし、日没も早いので4時ごろには暗
くなっていて写真も撮りにくかった。わがD300をISO3200に設定してもブレてしま
うだろう。

土産物屋も多く、その中の一軒で知人に頼まれていたスタンダードなマトリョー
シカを購入した。450ルーブルだっただろか。モスクワにはマトリョーシカ市場な
るものがあり、本来は出向いていきたいところだが時間が限られているので仕方
がない。この通りの端にスターリン様式の外務省がある。少し見えたかな。

今時のモスクワはスタバ、マクドナルド等米国文化も当然存在し、このような場
所では格好の立地となっている。マクドナルドは一度試したがスタバは入らなか
った。タシケントには絶対にありえないファーストフードだ。

アルバート通りの端にSmolenskayaという地下鉄駅がある。キエフ駅までモスクワ
川を渡って歩いてきたいところだったが寒さと暗さで地下鉄を利用、Kievskayaま
で行った。

■■編集後記
一気に書こうと思いながら他の事で忙しく年明けになってしまいました。二日目
の後半は、キエフ駅、20数年前にドニエプル号という夜行列車でキエフへ旅立っ
た駅、それと、キエフ駅前に最近オープンしたショッピングセンター、シベリア
鉄道の終着駅ヤロスブラリ駅です。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第44号 2010年1月17日
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2009年12月26日土曜日

世界の街角からMM 第43号モスクワ・レポート2 2009年12月13日 

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第43号 2009年12月13日
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11月21日から24日にかけてモスクワへプチ旅行を挙行した。新生ロシアの首都モ
スクワを垣間見たモスクワ・レポート2です。
▼目次
■モスクワのホテル
■赤の広場とGUM
■Ul.Tverskaya ツベルスカヤ通り
■モスクワのマクドナルド
■日本食レストランの現実その1
■■編集後記
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■モスクワのホテル
シェレメツェボ空港からベラルーシ駅までAeroexpressで、そこから地下鉄で移動
した。土曜日早朝にもかかわらず、かなりの乗客だ。ベラルーシ地下鉄駅から一
度乗り換え、Vladkinoへ、駅は住宅街の中、鉄道の環状線に隣接している。丸い
駅舎が特徴的、こういうデザインはソヴィエト的だな。直ぐ隣が植物園なのだが
どこが入り口かよくわからないほど広大そうだ。
(地下鉄:Belorruskaya-Novoslobodskaya/Mendeleyevskaya-Vladkino)

地図を見ながら住宅街を抜け、放射大通り(Altufyevskoye Shosse)を渡り、Riga
シネマ(ソヴィエト建築)を左にそして右に回ると1ブロック先にあるZaryaとい
うサインが見えた、そこがホテルだ。ホテルの前は並木道で夏だったらどんなに
すばらしいだろう。この地区、大通り沿いにAltai Hotelのサインが見えたが他に
もホテルがいくつか立地している。

モスクワでのホテルは、タシケントの旅行会社へ問い合わせたところ、かなり高
い料金が提示され、そんなに高いわけがないだろうとwebで宿泊料金を確認したと
ころ、旅行予定の日付だと51Euroというかなりリーズナブルなオファーが表示さ
れ、旅行会社は切り捨てて(約2倍の提示だった。)、メールを送り予約状況を
確認し、併せて査証取得サービス(R750)を確認した。11月下旬はオフなので最安
値圏、エキジビション等があると安い部屋から埋まっていくため予約が取りにく
くなるがそれでもオフシーズンだ。200室程度あるホテルなので楽観的ではあった。

ホテルは、下記のホテルでモスクワ市内に4ホテルある。地下鉄、Vladkino駅から
500m、モスクワの北部、直線距離ではシェレメツェボ空港にも比較的近い。

Maxima Hotel Zarya
http://www.maximahotels.com/zarya.htm

■赤の広場(個人的に感動)
ホテルにチェックイン後、朝食を軽く取りながら散策会議をロビーのカフェで行
い、先ずは、赤の広場へ行こうと事前打合せのとおり移動を開始する。
(地下鉄:Vladkino-Chekhovskaya/Tverskaya-Teatralnaya)

Chekhovskaya/Tverskayaで乗り換え、一つ目の駅Teatralnayaで降りる、この駅は
ボリショイ劇場の前に位置する。小雨が降る気温2-3度のお天気ながら、そこ
から人の流れが自然と赤の広場へ向かっていたので特に迷うことなく流れに乗っ
て辿り着いた。1985年のときもそうだろうな、ホテルで行き方を聞いて地下鉄に
乗った。

◆赤の広場回想
赤の広場、個人的には感慨深い。20数年前、この広場を訪れたからだ。季節が違
えどその時間経過の中での変化を思うとただただ佇んでいたいと思ったが、現実
は寒い。

「1985年7月9日、爽やかな夏の日、モスクワの赤の広場に立った。今も記憶は鮮
明だ。前日の夕方、ナホトカ航路シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断し、モス
クワに到着したばかりで勇んで宿泊していたBDNKhのコスモスホテルから地下鉄で
赤の広場まで行った。」

赤の広場は長方形で7.3haある。短辺のツベルスカヤ通り側に歴史博物館、その対
面、モスクワ川側に聖ワシリー寺院、長辺はクレムリンとGUMである。そしてクレ
ムリン側中央にレーニン廟がある。広場は石畳で緩やかにモスクワ側に向かって
傾斜している。子供のころブレジネフ書記長が中央に立ち軍事パレード(5月1日の
メーデーと11月7日の革命記念日)が行われている様子はTVで見た記憶があるが今
は昔だ。

結婚式を挙げたカップルが結婚登録(挙式)後に記念撮影のため訪れる定番地で
あり、小雨の降るお天気ながら数組のカップを見かけたことはソヴィエト時代と
変わっていない行事のようだ。

*事件簿****************************************************************
1987年5月28日に西ドイツの青年マチアス・ルスト(当時19歳)の操縦するセスナ
機がヘルシンキから飛び立ち、赤の広場に強行着陸する事件が起きた。ルストは
自由剥奪4年の実刑判決を受けるが翌年国外退去処分となる。小型機の侵入を防げ
なかったことでソ連軍は防空体制の甘さを糾弾され、セルゲイ・ソコロフ国防相
はじめ防空軍総司令官らが更迭された。この事件は、当時のゴルバチョフ政権に
とっては改革に反対する軍部の保守強硬派幹部を更迭する理由として、むしろプ
ラスに働いた。(wiki)
******************************************************************

ちなみにクレムリンと赤の広場は世界遺産に登録されている(1991年)。

山本寛齋(1993年)やポール・マッカートニー(2003年)がここでイベントを開
催、旭硝子のCMにも赤の広場が使われている。AGC、AGCと連呼するマトリョーシ
カは印象に残っている。

◆レーニン廟
今回も時間なくパス。設計者であるAlexey Shchusevはウズベキスタンの首都タシ
ケントにあるナボイ劇場の設計者でもある。ナボイ劇場は第二次世界大戦後、日
本人抑留者が建設に従事した代表的な建築である。

◆クレムリン
クレムリンというのは城塞を意味するロシア語であり、帝政ロシア時代、ソヴィ
エト時代を通して政府中枢がこの城塞内にあった。現在はロシア連邦の大統領官
邸と大統領府が置かれている。

クレムリン宮殿内に武器庫があり兵器の展示と合わせて美術工芸品や貴金属類が
展示されている。明治天皇がニコライII世の戴冠式に贈った象牙の鷲と刺繍入り
の屏風も所蔵されている。

クレムリンの尖塔にはロシア国旗が掲揚されていたことが前回と大きく異なる点
だった。今回も中には入らず仕舞い。

■GUM
GUMは、ロシア語のState Department Storeの略である。赤の広場の長辺に沿って
クレムリンと対峙する位置に19世紀末に建設された細長い建物巨大な建物だ。3階
建て、3列のアーケードから構成されている。天窓があり照明を取り込む構造とな
っている。ヨーロッパでもこのような規模の歴史的な商業施設は記憶にない。

1985年にモスクワに来た時はこの建物が何なのかわからなかったが、堂々と赤の
広場に面しているので不思議に思っていた。それで人の流れを良く見ていたらか
なりの人がこの建物に吸い込まれていくのでその流れに乗ってみたらアーケード
だった経緯がある。建物は同じだがテナントは当時の面影はない。当然のことだ
が。

現在のテナントは高級ブティックやインターナショナルブランドのショップが多
く、ショーウインドウの性格が強いのでは。

Red Square tel. (+7) 495 788 43 43 Open 10:00 - 22:00.
Metro station: Pl. Revolutsy

http://www.gum.ru/en/

■Ul.Tverskaya ツヴェルスカヤ通り
東京で言えば銀座だろうと聞いたツベルスカヤ通りだが、青山辺りを一緒にした
ような印象だった。

道路復員が広く反対側とのリンクはあまり感じられず、片側ごとに完結している
ような印象だった。あまり時間なく本屋とレストランに立ち寄った程度、時間も
遅く直ぐに暗くなってしまった。

オポトニリャト駅からプーシキンスカヤ駅までも歩いていないので出直し対象だ
な。

■モスクワのマクドナルド
ツヴェルスカヤ通りでPCショップを探しているときに「M」のサインが視野に入っ
たので入ってみた。盛況、盛況、席がない。暫く待ったら4人席が空いた。ほっと
一息、ビックマックバリューセットを注文、R.137だったか、日本より若干安めだ
ろう、ボリュームはドリンクとフレンチフライの量が多いのでこちらのがある。

場所:
http://maps.google.co.jp/maps?q=moscow+mcdonalds&gl=jp&hl=ja&cd=1&ei=6OEk
S9XPMOG8jAfSo9n7DQ&sig2=Lh3yhcyEf7dgQssNPQW3VA&sll=55.758946,37.610543&ss
pn=0.006295,0.006295&brcurrent=3,0x0:0x0,0&ie=UTF8&view=map&cid=378506336
1235450874&ved=0CBAQpQY&hq=moscow+mcdonalds&hnear=&ll=55.75965,37.610536&
spn=0.008222,0.016029&z=16&iwloc=A

ツヴェルスカヤ通りをもう少し北へ行ったプーシキンスカヤにあるマクドナルド
は一日3万人が利用する世界でも最大の売り上げを誇るようである。
http://www.mcdonalds.ru/

■日本食レストランの現実その1
夕飯はこの辺りで食べようということになり、さて、どこへ行くべきか、安易に
地球の歩き方に掲載されているツベルスカヤ通りの和食レストラン「銀の瀧」に
行くことにした。

ちょっと油断をするとこういうことになるという例がこの選択だ。新しい都市で
はその土地に暮らしている人の意見や英語のガイドブックを調べるのだが、今回
は安易に決めてしまった。

ロシア人の目線だとこの店の出す食事が日本食なのだろうが日本人の目からする
と完全に擬似日本食、しかも料理が冷めていた。かなり遠い遠い日本食なので期
待しなければ、若しくは、巻物程度ならば、クリエイティブなメニューが多い、
納得ができるかもしれない。

しかし、この内容でかなり客が入っていることから、これが日本食と受け取られ
ているのだろう。ウエイトレスの数が少なくサービスレベルは非常に低い。クレ
ジットカードの支払いができるとの説明だったが結果できなかった。私からはお
薦めできない店だ。

web情報(2002年)からこの店は「養老乃瀧」が経営指導したとのことだが既に指
導は終了したのだろう、この質からはそう感じた。
http://www.gin-notaki.ru/
http://www.dostavkasushi.ru/

■■編集後記
ツヴェルスカヤ通りはもっと時間を取って散策すべきでしたね。それから、日本
食の普及度には驚いたが質の維持が課題だろう。

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メールマガジン「世界の街角からMM」第43号 2009年12月13日
発行責任者:飯尾彰敏
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世界の街角からMM 第42号モスクワ・レポート1 2009年12月9日 

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第42号 2009年12月9日
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11月21日から24日にかけてモスクワへプチ旅行を挙行した。新生ロシアの首都モ
スクワを垣間見たモスクワ・レポート1です。
▼目次
■回想モスクワ1985年、モスクワ・ヤロスラブリ駅到着
■新生ロシアの首都モスクワ
■シェレメツェボ空港
■モスクワの地下鉄
■■編集後記
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■回想モスクワ1985年、モスクワ・ヤロスラブリ駅到着

1985年7月8日、午後4時40分、モスクワ・ヤロスラブリ駅に到着した。横浜港を出
てから足掛け10日目、途中イルクーツクで一泊したが、にしてモスクワへ到着。
モスクワはユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道の終着駅であり、ヨーロッパ
各都市への始発駅でもあった。

2番線だろうか、プラットフォームに降り立ち、長時間の列車旅行でまだ足元がし
っかりしない状態で荷物を背負い、遠くに見える東欧によく見られる建築様式の
駅舎(屋根に特徴があった)へ向かって歩き始めた。

この駅にはインツーリストの事務所があり、そこへナホトカから一緒だったイン
ツーリストの添乗員マリーナらと出向いた。

バウチャーの説明では駅からホテルまでの車が用意されていた。私を担当したイ
ンツーリストの職員はナターシャといい、モスクワ大学東洋学大学で日本と日本
文化を学んでいる女学生、夏休みの間アルバイトをしていると説明された。

ナターシャは、日本に滞在していた経験があり、子供のころNHKのロシア語講座に
も出演していたそうだ。車が来るまでそんな世間話をして過ごした。

しばらくして、車が来てしまった。もう少し話をしたかったがそういうわけにも
いかず、手配されたラーダより大きなボルガというブラックのセダンの後部座席
に押し込められてしまった。

ホテルは、BDNKhの前にあるモスクワオリンピックに合わせて建設されたコスモス
ホテルだった。どこをどう走ったのか記憶にないが、車は非常に少なく道路は非
常に広くヨーロッパのようなモスクワの町並みと箱型のビル群、多分住宅だろう、
が窓から過ぎ去っていった。

続きはこちらのサイトにあります。
http://1985.iio.org.uk

■新生ロシアの首都モスクワ
実に1985年7月以来となるモスクワ、既にソヴィエト連邦は崩壊し、新生ロシア連
邦の首都として顕在している。今回は、ウズベキスタンのタシケントからモスク
ワへ旅行した。飛行時間4時間、もちろん航空会社はアエロフロートを利用した。

体制が崩壊して十数年、既にショック療法による市場経済化の推進は、エリツィ
ン政権下でのマクロ経済政策の失策からプーチン政権に移行してからの経済運営
の成功により完全に立ち直ったかのように私の目には映り、モスクワは最早ヨー
ロッパを代表する大都市のような印象だった。

20数年前のモスクワはもう完全に過去のものとなったのか、道行く人々や高級ブ
ランドのウインドウ、広い道路を走るヨーロピアンブランドの自動車等、地下鉄
や建物以外当時の面影はなく、ヨーロッパの一都市と変わらない。シェレメツェ
ボ空港も然り、第2ターミナルが増設され、現在、第3ターミナルがオープン間近
だという。

今回のプチ・モスクワ旅行はこちらに詳細を説明しています。(多々、準備中も
ありますこと、ご了承のほどを。)

http://moscow.iio.org.uk/index.html

■シェレメツェボ空港
悪名高きシェレメツェボ空港、ソ連時代はトランジットでしか利用しなかったが
今やその面影は名称のみだ。共産主義時代のパスポートコントロールは、かなり
時間がかかった、パスポートの写真と本人をじっくり2-3度凝視されたものだ。

今回、当然確認はするもののすんなりと、特に待ち時間も長くなくスムーズな手
続きだった。タシケント空港と比較すると、タシケント以外のどこの空港でもそ
う感じるのだろう、非常に快適と思えてしまう。

既にシェレメツェボ空港は第2ターミナルが供用され、近々第3ターミナルがオー
プンする予定である。

我々が到着したのはシェレメツェボ空港第2ターミナル、午前7時過ぎだったがま
だ深夜のと同じような暗さ、入国手続き、税関(申告なし)を経て新生ロシアへ
入国した。

そして両替所を探す。出たところに銀行窓口があり、100米ドルを両替した。税関
の手前にも両替所があるがレートが非常に悪い。

そこから、Aeroexpressの駅を探す、サインには従うとどうも外のようだ。ターミ
ナルビルから外へ出た正面にAERO EXPRESSのネオンサイン、小雪交じりの早朝、
まだ連絡通路が工事中のため所々歩道を歩く。振り返ると少し明るくなってきた
空を背景に「Sheremetyevo 2」という赤色のサインがビルの最上階に見えた。

シェレメツェボ空港
http://www.svo.aero/en/

■Aeroexpress(空港から市内への移動)
2007年9月、Savelovsky駅とSheremetyevo空港を接続していた鉄道がBelarusky駅
まで延伸が決定され、2008年6月、新駅舎の竣工とともにSheremetyevo1-2空港か
らBelarusky駅までAero Expressという直通列車の運行が開始された。

今回、この列車を利用、タクシーに乗らなくてもホテルまでは辿り着ける。運行
頻度は30分毎、ベラルーシ駅まで所要35分、駅はターミナルの地下ではなく外に
あり、少し歩くがこの程度は至便の範囲だろう。改札の前にスタバがあり、

その他のモスクワの空港へもAeroexpressが運行している。Vnukovo空港へはキエ
フ駅、Domodedovo空港へはPaveletsky駅と接続している。

http://www.aeroexpress.ru/en/

Domodedovo空港
http://www.domodedovo.ru/en/

Vnukovo空港
http://www.vnukovo.ru/eng/index.wbp


■モスクワの地下鉄
Belarusky駅でAeroexpressを降り、Belarusskaya地下鉄駅へ向かう。駅からでて
少し歩くと「M」のサインが見えた。地下鉄駅までは、両替所やキオスクなど集中
し人通りが多い。

モスクワの地下鉄は1935年に開業、現在、12路線、総延長292,2km、一日9915本の
列車が運行され、一日あたり約900万人の乗降客数である。最短の運行頻度は90秒
と東京メトロよりも運行頻度が高い。地下鉄は、モスクワの都市交通機関におけ
る乗降客数の57%を占め、駅は宮殿のような装飾が施されていることでも知られて
いる。

1985年当時の運賃は5カペイカ(1ルーブルの100分の1)、今回はR22(1回券)
だった。荷物があるとR22追加。回数券(Multi-ride-ticket)があり、例えば10
回分でR200、20回分でR380と割安かつ窓口が混んでいるので回数券は移動には必
須である。タクシーだけでの移動ならばその限りではない。

今回、3日間なので20回券を購入、紙のカードを手渡された。磁気で回数券の情報
が書き込まれているのだろう、改札にある検札用接触部(非接触ではない)に
カードを接触させると残回数が表示される。旨く、検知されないとストッパーが
降り通過できない。

Moscow Metro
http://engl.mosmetro.ru/

■■編集後記
1985年以来のモスクワ、どうしても比較してしまうが、現在のモスクワを探索し
ようと心がけたプチ・モスクワ旅行、引き続き、モスクワでの印象、レポートす
る予定です。
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メールマガジン「世界の街角からMM」第42号 2009年12月9日
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2009年11月25日水曜日

世界の街角からMM 第41号 いざモスクワへ! 2009年11月15日

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メールマガジン「世界の街角からMM」        第41号 2009年11月15日
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モスクワに行くことにしたのでウズベキスタンでロシアのビザを取得した、その
ときのメモです。
▼目次
■いざモスクワへ!
◆VISAが取れるかな?
◆ソヴィエト時代のインツーリスト
◆VISA申請
◆VISA発給
■■編集後記
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■いざモスクワへ!
11月後半の三連休を利用して勉強会の有志とモスクワに行くことにした。実に赤
の広場に立った1985年7月以来となる。当時はソヴィエト社会主義共和国連邦、現
在はロシア連邦、首都は変わらずモスクワだ。タシケントでの仕事を始めたとき
には考えても不可能だろうから考えていなかったが、意外と連休がタイミングよ
くあり、しかも、行こうという有志もいた。されどVISAの問題があり、航空券だ
け買えばそのまま行ける国ではないことはソヴィエト時代と変わっていない。

この問題を解決せずしてリアリティが沸いてこないのは当時も現在も同じだ。当
時は、インツーリストとという国営旅行社があり、日本の代理店からインツーリ
ストへ予約を入れてもらい、バウチャー(予約証明と招聘状が一緒になった確認
証)を取得して狸穴のソ連大使館領事部へビザ申請した。当時、ソヴィエト国
内はどこでもこの一社でよかったのだが、今回はそのバウチャーをどのようにし
て取得するかという点に焦点を当てwebで検索するも法外なビザ手数料の旅行社ば
かりでなかなか具体的な情報が得られなく勝手が違った。

◆VISAが取れるかな?
ソヴィエトの構成国家であったウズベキスタンに滞在しているので、ここの旅行
社ならと問い合わせるが、webと同様な料金だし、ホテルも法外に高いオファーだ
った。ウズベキスタン国民は短期間の場合ロシアへはビザなしで行けるので需要
もないのだろうか、と考え、更に関連情報をレビューした。

ロシア政府に承認された旅行社や機関がバウチャーを発行できるという説明がweb
にあり、この情報から類推し、ホテルは旅行会社とも密接なはず、若しくは、旅
行会社がホテルを経営している可能性もあることからバウチャーの発行が可能で
はないかと仮定、この線でホテルへのビザサポートを確認し、ホテルが発行する
バウチャーでビザ申請が可能か否かをウズベキスタンのロシア大使館へ確認して、
ビザ申請へ漕ぎ着けた。この手続きで同時にホテルの予約を済ませ、平行してア
エロフロートのフライト、タシケント-モスクワ往復を予約した。

◆ソヴィエト時代のインツーリスト
ソヴィエト時代は、フライトスケジュールもバウチャーに含まれていたがロシア
連邦になってからは宿泊予約確認だけで観光ビザが申請できるようだ。しかもバ
ウチャーはホテルの予約担当が頑張ってくれ、予約確認とビザサポートを申し込
んだ翌々日にメールでバウチャーを送ってきた。金曜日に必要書類をメールで送
り、日曜日に届いたのでかなり早かった、ソヴィエト時代とは大違いだし、ウズ
ベキスタンはまだこのペースが抜け切れていないが、このサービスレベルに感心
し、モスクワはどんなに変わったのだろうかと数週間後に体験するモスクワを想
像した。

◆VISA申請
書類がそろったので、これで目出度くタシケントのロシア大使館領事部へビザ申
請を行った。領事部の入り口はウズベキスタン人が並んでいたが、窓口にビザ申
請だと告げるとセキュリティチェックをして領事部へ通れた。窓口の女性はテキ
パキと書類を処理、英語が通じたのも幸いした。ちょっとした躓きもこのときあ
った。事前の説明ではパスポート原本はビザ受領時と言われていたが申請時に預
けなければならず、同日に取りに帰り提出し、観光ビザ代(50米ドル)を窓口で
払い受取証を受け取った。

在京ロシア大使館のページをよく読んだら、2週間後の受け取りは全てのビザが無
料とある。これは日本国籍のみだが、在京だからだろうか、確認してみる価値は
ある。
http://www.rusconsul.jp/hp/jp/visa/visa.html

◆VISA発給
ビザは当日、翌日発給のエクスプレスサービスもあるが、通常の5日で申請、11月
10日、16時にパスポートに張られたビザとともにパスポートを受け取った。これ
で出発前準備が完了、ビザ手続きだけでかなりのエネルギーを使い果たしてしま
って、モスクワのことはまだまだ情報不足、これから、いざモスクワへ!は本格
的にこれからです。

■■編集後記
手続きだけでもう既にモスクワへ行ったようなエネルギーを使った。20数年ぶり
のモスクワ、楽しみだ、ただ寒そう!
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